2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『大日本帝国の痼疾』(9)

「英将秘訣」―その天皇観(2)


一、本朝の国風、天子を除くの外、主君と云ふ者は 其世の名目也。独夫なれば、やがて予(われ)主人 と為るは唐の例也。聖人の教也。猶ほ物の数とも為 す事なかれ。

(「独夫」→「どくふ」、つまらない男、見放された 君主)

 この条文は「竜馬がゆく」での使われていた。 次のように訳している。

「本朝(日本)の国風、天子を除くほかは、将 軍といい、大名といい、家老というも、みなその 時代その時代の名目にすぎぬ。物の数ともなすな かれ」


 この条文では儒学の聖人信仰が否定されている。 これについてもすでに宣長にラジカルな言説がある。

「いはゆる聖人も、たゞ賊の為とげたる者にぞ有り ける」(「直毘霊」)

 中国の聖人はみな纂奪者にすぎない、と言ってい る。将軍だとか藩主などというものはたんなる 名分にすぎない、そして天皇だけは例外だと述べ ている。

 しかし、この条文の文脈内で読む限りでは、 天皇もまた「主君」と同じく名分論において比較さ れていることになる。このようなあつかいかたは、 国学(特に平田派)にとってはきわめて不謹慎 な態度であり、それこそ「不敬罪」にもあたいする。 平田派にとって天皇は絶対的帰依の対象である。 この条文では、その絶対的天皇信仰が解体している。 それは次の条文でさらに決定的に表明されている。

一、万国に生れしか、或は外国へ渡らば、王に成る を以て心とすべし。日本にて《は開闢の昔より天子 はころさぬ例なれば、是斗りはいけて置くべし、》 将軍とかいふ者に成る心を工夫すべし。《天子と 同様なり》

(「是斗りは」→「こればかりは」かな?」

 《》内の文言は大正時代には伏字にされていた。 「不敬罪」にあたると判定されたわけだ。なにしろ、 ここでは天皇が徹底的に政治の手段と化している。 一応は、天皇は権力奪取の対象としないとは言って いってはいるが、外国の王や将軍という政治権力者 とおなじレベルで論じている。この点で国学的天皇 観とはまったく異なっている。ここまでの「秘訣」 の天皇観の分析を、近藤さんは次のように総括して いる。

 いったい国学にあっては、儒・仏・基三教はおろ か「老荘の糟粕」として国学とアナロジカルな自 然思想を内容とする道教でさえ、排斥する。18世 紀の宣長いらい、およそすべての外来文化を「漢 心」だと批判するためには、固有の思想が、「日 本的」原理が、どうしても必要になる。その基準が 天皇(制)とされたわけだが、それは現在的にいえ ば、思想というより宗教である。思想は自己自身を も相対化しようとする本質をもつが、宗教は自己を 絶対化する。だから国学が天皇(制)を批判するこ とはじぶんで破産宣告をするようなものである。

 そのような国学であるから放伐論ないしは易世 革命説は当然否定される。それに反し「秘訣」の 筆者は、語脈をジャスティフィケーションしてい る、というより自明の理なのである。にもかかわ らず天皇(制)にたいする相対的な見方が、 国学的(ヽヽヽ)な天皇 信仰の内部から分泌されてきたというの は、じっさいに権力を掌握していることを合理化 する幕府および諸藩の支配イデオロギーが放伐論 の延長線上にあり、それを批判する根拠は天皇 (制)いがいになかったからである。

 国学的という言葉に傍点を付したのは、アンシ ャン・レジーム化した幕末―維新期を嚮導した反 体制思想は、水戸学であれ闇斎学であれ、陽明学 (は基本的に放伐論を肯定している)であれ、多 かれ少なかれ尊王または勤王精神を潜在もしくは 顕在させているということである。つまり天皇信 仰は深浅の差にすぎない。端的にいえば、「秘訣」 には、これらの要素が前提としてすべて包括され ている。

 上の引用文中の語句についての註。(私には初見の 言葉なので、なによりも自分のために調べました。)

「老荘の糟粕」
 「古人の糟魄(そうはく)」という諺を転用 しているようだ。意味は
『昔の聖人が用い尽くしたかすという意で、聖人 の行った道の真髄は言語で述べがたいものである から、書物にしるされて今伝っている聖人のこと ばは、かすに等しく無益だということ。』 (東京堂出版版「故事ことわざ辞典」より)

放伐論(易世革命説)
 ひとことで言ってしまえば、「王位簒奪肯定論」。 その大義名分を孟子が説いている。それを、正確 には、「湯武放伐論」と呼んでいる。「湯(とう)」 「武」はそれぞれ「桀(けつ)」「紂(ちゅう)」 を討って「殷」「周」を創始した王。2週間ほど前に 『「武烈紀」と「桀王・紂王」の故事』 で取り上げた。

 「湯武放伐論」は「孟子語録十五」にある。 (筑摩書房・世界古典文学全集「大学 中庸 孟 子」より)

斉の宣王問うて曰わく、湯、桀をち、 武王、紂をつ。諸(これ)有りや、
(斉の宜王か孟子に問うて言った。「殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を討伐したと聞い ているが、この事実があつたのか」)

孟子対えて曰わく、伝に於て之有り、と。
(孟子は答えた。「古い記録にございます」)

曰わく、臣、其の君を弑(しい)す、可なるか、と。
(王、「臣下がその君主を殺す、このようなこと ができるであろうか」)

曰わく、仁を賊(そこなう)う者、之を賊と謂う。 義を賊う者、之を残と謂う。残賊の人、之を 一夫(いっぷ)と謂う。一夫紂を誅するを聞くも、 未だ君を弑するを聞かざるなり、と。
(孟子、「仁の道をそこなうものを〈賊〉と言い、義の道をそこなうものを 〈残〉と申します。仁義の道を破談する残賊の人を〈一夫〉と申します。 周の武王は、一夫である紂王を誅殺したのであつて、君主を弑逆したの ではございません。さように聞いております」)


 国学は放伐論(易世革命説)を否定しているが、 それは国学の理論的根拠である「古事記」の内容と 矛盾する。「古事記」を大誤読しているのでその 大矛盾には気づきようがない。

 『ヤマト王権・王位継承闘争史』でみたように、 「古事記」のヤマト王権史を縦に貫いているのは まさに放伐(易世革命)の歴史である。先の権力者 を暴虐な王(あるいは反乱者)にしたて、仁徳に 富む王(あるいは正統な王)がこれを討伐すると いう大義名分説話のオンパレードであった。

 国学の天皇論は所詮、砂上の楼閣、いや誤謬の 水平線上の蜃気楼に過ぎない。

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