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『大日本帝国の痼疾』(8)

「英将秘訣」―その天皇観(1)


 『「英将秘訣」論』に戻る。

 「秘訣」が能動的ニヒリストの手になるもので あることを最も如実に示しているのがその天皇観 である。

 明治維新がその思想的根拠として呼び起こした 「過去の亡霊」=「天皇(制)」、それは草莽の尊攘 派にとってはもとより、それなりの合理主義を身 につけていた幕府や諸藩の公武合体派にとっても、 初めは「価値」の対象であった。

 価値を能動的に破壊できるのは、その価値が内 部に存在する場合に限る。公武合体派にとっては 、その価値が外部に存在したため、それを乗り超 えることは不可能だった。それに対して「秘訣」は、 絶対的な天皇信仰の内部において生じた裂け目か ら出現したと言うべき性質の虚無をかかえている。 その「裂け目」を覗くために、天皇(制)に絶対 的な価値を求めてきた思想を瞥見しておこう。

 本居宣長は天皇(制)についての言説は、例えば 次のようである。

「国といふ国に、此の大御神の大御徳かゞふらぬ国 なし」(「直毘霊(なほびのみたま)」)

「……四海万湖此御徳光を蒙らずといふことなく、 何れの国とても、此大御神の御蔭にもれては、一日 片時も立ことあたはず」(「玉くしげ」)

 また、宣長の理念を政治的に発展させた篤胤は 次のように言っている。

「皇御孫命(すめみまのみこと)の、天地とゝも に、遠長に所知看(しろしめす)御国にして、万国 に秀で勝れて、四海の宗国たる」(「霊之真柱(た まのみはしら)」)

 天皇が絶対的な価値を保有しているという思想( というより「信仰」という方がふさわしい)を表明 している。その特徴は、天皇の「御稜威(みいつ)」 が日本だけではなく、「人類に於て」、普遍的に通 用すると信じられているてんにあるが、これと 「秘訣」の天皇観はどう違うだろうか。

一、今上皇帝及び玉座の神璽を頂き鳳輦を、迎へんには、禽獣草 木と雖も鰭伏して靡かん。況や人類に於てをや。

 宣長や篤胤の天皇が歴代の宗教的威力としての天 皇を意味しているのに対して、上の条文では具体的 な現に存在する「今上皇帝」(「秘訣」の成立時期 から、孝明天皇と考えてよいだろう)をもちだして いるてんで異なる。徹底して政治的なのである。この ような天皇観は、幕末の急進的な政治思想にひとし くみられるものである。例えば、「秘訣」の著者と おなじように藩権力をバックにもたない草莽 の志士・大橋訥庵も「政権恢復秘策」で、次の ように「絶対的な天皇信仰」を吐露している。

「申すもかしこきことなれども、今上は英明にまし まして、夷狄猖獗を憂憤し玉か、日夜宸襟を苦しめ 玉ふと云ふことは、草莽までも聞え渡りて、誰も彼 もあり難いきことよと涙を落し、かゝる澆季の世に 当り、神州の危ふき折からに、英明の天子出玉ふて、 国土を憂憤し玉ふは、古へ天祖の勅に、 宝祚(あまつひつぎ)ノ隆ヘマサムコト、当二 天壌(あめつち)ト窮り無カルベシと宣ひつる しるしならん」

 しかし、訥庵の思想のベースは平田国学ではなく、 いわゆる体制イデオロギーである幕府の正学、朱子 学である。そしてここでの天皇観は政治色を帯びて いるてんでは「秘訣」のそれと同じだが、その「政 治」の方向が異なる。

 『「尊王攘夷論」の形成』 でみたように、もともと「尊王攘夷論」は幕府の 政策をバックに形成されてきている。それは、欧米 資本主義列強の物理的、精神的侵略をはねかえすた めには、天皇の「勅許」が現実的政策としてどうし ても必要だったからである。幕府の「攘夷」という 政策は、それじたいきわめて自然な防衛意思 (近藤さんは、当時の日本が文字どおり国防につと めていただけであって、国防に名を借りて侵略して いなかったことは留意すべきだろう、と書き添えて いる)であった。

 しかし、1825(文政8)年の「異国船打払令」では じまった強硬対外政策は、1842(天保13)年には、 なしくずし的に廃止された(薪水給与令)。以後、 攘夷派と開国派、あるいは尊王派と公武合体派の 相克が激しくなる。やがて、幕府が「征夷大将軍」 の職責=攘夷を履行しないことが志士たちの攻撃の 的となっていった。そして、 幕府の露骨な弾圧の始まりである「安政五年の大獄」 (1858年)を契機に、「政治としての天皇」が絶対 化していく。近藤さんは言う。

『権力の弾圧が強化されればされるほど、人間 は、その権力に対抗するおのれの理念または信仰 をますます正当なものとみなし、純化する』

 まさしく「政権恢復秘策」が書かれたのは1861(文久元) 年である。そして、その文久と呼ばれたわずか3ヵ年 の間に政治党派間に激しい抗争がくりひろげられ

将軍・大名上級武士層を中心とした公武合体派

下級武士・豪農・商層を中心とした尊攘派

尊攘派の挫折をへてふたたび公武合体派

と政局の主導権はめまぐるしく変動した。

この情況のもとで尊攘派の天皇の絶対化は同時に、 現実の天皇への不信からよってくる天皇の相対化 と裏表であった。つまり、絶対的な天皇信仰の内 部に「裂け目」が生じる。その相対化を促進した のが、1860(万延元)年の公武合体派の計略、 いわゆる和宮降嫁問題であった。

 訥庵の意見書は、この事件にたいする幕府への 憤激を動機のひとつにしている。しかし、そこに みられる天皇信仰は、現在位の天皇への失望と不 満によって屈折している。訥庵によれば和宮降嫁 問題も、天皇が「些末の義に拘泥し」優柔不断で 攘夷の詔勅をひきのばしているから幕府につけ こまれたのだ、ということになる。幕府に攘夷を 要請することは、「泥酔漢に仁義を説く」ような もので、「当今の大関鍵は、幕府を捨て玉ふと否 とに有て、天朝の御廃興もそれにつれて分る」と、 「公武一和」の夢はすでに幻想にすぎないという 現状認識を述べ、「徒らに旧格を守り玉ひ、区々た る小義に泥(なず)ませられて、何事も御相談の上ならで は決して玉はずと云ふことにては、御恢復の機会 もはづれて、天朝も亦幕府と倶に顛覆に至り玉ふ べし」と天皇叱責している。そうなれば「天攘無 窮」の「古へ天祖の神勅」にたいし「誠に大なる 御不孝」になるというのである。そして訥庵は勅 命の趣旨内容の見本までこしらえ奏上している。

 さらに、尊攘派の天皇信仰に一層の亀裂を広げ させ、徹底的な敗北を体験させたのが、「文久3年 8月18日のクーデター」である。これは、長州藩の 尊攘派と結託して政局をほしいままにしていた七 人の公卿(三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼 徳・澤宣嘉)が、薩摩藩・会津藩などの公武合体 派に敗れて京都から追放された事件である。 尊攘派がやっと受け取った攘夷親征の勅許が 天皇の意志によって撤回されたのが、その きっかけであった。尊攘派の天皇に対する不信 はさらに大きく広がったに違いない。

 この事件以後、その挫折をスプリング・ボード に尊攘派は倒幕派として脱皮する。そして政局は 天詠組挙兵、生野の変、禁門の変,天狗党の乱と 激動の局面を迎える。この激動が孕んでいた可能 性とそのあえない消滅を、近藤さんは次のように 論述している。

 このようにありうべき理想の天皇とあらざるべき 現実の天皇との矛盾が深化すれば、「秘訣」にみら れるような政治主義が発生する。というのは価値を 相対化するモメントはつねに現実の側でおこって いるわけだが、権力志向を放棄せずに、否しないか らこそ、敗北の現実をくりかえし容認せざるをえな い場合、現実主義的、合理主義的傾向に陥りやすい のである(このような意味では尊攘激派のなかで ももっとも敬神的な平田党は、一度も敗北したこ とはないといえる。明治国家成立後の平田派の衰 退にしても、彼らじしんは敗北感を味わうことは なかったはずだ。〈正義〉はつねに自己の側にあ ることを、彼らは疑わなかったからである)。 「秘訣」という暴力的な非合法怪文書が、暗さ というよりむしろ爽快な、明るい印象を我々にあ たえるのは、そのためである。

(中略)

 天詠組挙兵、生野の変、禁門の変等一連のおび ただしい血の代償は、天皇(制)が「過去の亡霊」 であることを、王政復古思想をのりこえる可能性 をあたえたはずだった。しかし〈宗教〉のかわり にあらわれたものは、きわめて合理主義的な権力 政冶への、かたちを変えた信仰である。

 慶応年間にはいると、「玉を奪ふ」、「玉を抱 く」などという天皇の隠語が志士気どりの連中に ひんぱんに使われるようになったことは、よく知 られている。西郷はべつにして、この時期から目 立った活躍をする木戸、大久保、伊藤、山県、岩 倉らが明治藩閥政府を構成する。戦術・戦略・策 略・謀略、およそ権力を発展・維持させるための あらゆる手練手管、権謀術数に長けた政冶家が登 場する。これらの連中がかりに近代的ニヒリス トであったとしても、能動的ニヒリストでないゆ えんは、おのれの権力政冶じたいへの信仰につい て、無自覚だからである。

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