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『大日本帝国の痼疾』(3)

「尊王攘夷論」の形成


 一年ほど前、店頭で竹越与三郎著『新日本史』 (岩波文庫)に目を引かれ購入した。竹越与三郎 は私には未知の人だった。竹越は三叉との呼ばれ ている。1865(慶応元)年生まれで1950(昭和25) 年に没している。『新日本史』の上巻は1891(明治 24)年に刊行されている。なんと、三叉さん、弱冠 26歳である。

 『新日本史』は1853(嘉永6)年のペ リー来航から1890(明治23)年の国会開設までを扱 っている。まさに「大日本帝国誕生史」である。 また、著者にとってはまさしく同時代史である。

 さて、幕末に猖獗をきわめるにいたる「尊王攘夷 論」の源流を、『新日本史』は次のように書きとめ ている。

 挙国震驚、人心擾々の中より、先ず霞のごとく、雲のごとく、 幻然として現出せるものは「日本国家」なる理想 なりき。幾百年間英雄の割拠、二百年間の封建制 度は、日本を分割して、幾百の小国たらしめ、小 国をして互いに藩屏(はんぺい)関所を据えて、 相猜疑し、相敵視せしめたれば、日本人民の脳中、 藩の思想は鉄石のごとくに堅けれども、日本国民 なる思想は微塵ほども存せず。これがために日本 全体の利益を取って、一藩の犠牲とせんとする者 少からざりき。士人識者にして已にかくのごとく なれば、商売農夫に至っては、殆んど郡の思想あ るに過ぎず。概していえば、愛国心なるものは、 殆んど芥子粒ともいうべく、形容すべからざる微 小なるものにてありき。然れども米艦一朝浦賀に 入るや、驚嘆恐懼(きょうく)の余り、舟を同う して風に逢えば呉越も兄弟たりというがごとく、 夷敵(いてき)に対する敵愾心の情のためには、 列藩の間に存ずる猜疑、敵視の念は融然として掻 き消すがごとくに滅し、三百の列藩は兄弟たり、 幾百千万の人民は一国民たるを発見し、日本国家 なる思想ここに油然(ゆうぜん)として湧き出で たり。而して紛紜(ふんうん)せる頭脳に於ては、 この国家と外国との間には、寛闊(かんかつ)な る余地あるを解する能わず、国家と外国とは決し て両立すべからざるものと信じ、外人は是非とも 国家の外に撃ち払わざるべからずと信ぜり。これ 実に攘夷論の起原にして、久しく幕府の 舅姑(きゅうこ)政治家たる水戸侯斉昭(なりあき) と、その近臣にして権略一世を蓋う藤田虎之助 (東湖)らその唱首たり。

 これより先、世の慷慨家は、天子の山陵、至る 所に荒草茫々として箒掃(そうそう)する者なき を見て、あるいは皇威赫々の盛時を追懐し、ある いは南朝の天子、親しく戈(ほこ)を取って武人 と戦いし往事を回想し、如今(じょこん)皇室の 威権なきを憐み、尊王の議論を唱うるものありし も、これただ詩歌的懐古の情に出でしに過ぎずし て、尊王の字義を分析し来れば、天皇の采邑 (さいゆう)を多くすべし、幕府は皇室に敬礼を 尽くすべし、天皇の山陵を箒掃すべしというの 類のみ。いまだ天皇を以て政治上の立物(たてもの) とせんとする明白の思慮あるものなかりしが、 外人の来航によりて、微昂熱沸せる我が人民の 脳中に、国家なる思想の生じ、この国家に対して 殉ぜんとする焔々たる烈志の生ずるや、国家と 天皇とは初めて連絡を生じ、国難に殉ずるは、 即ち天皇に勤むるものにして、天皇を尊とぶは 即ち国家に勤むる所以(ゆえん)なりとなし、 仏国にありては専制なるルイ王の口を藉りて出で たる「君主=国家」なる幼稚なる思想は、吾国に 於ては先ず人民の脳中に生じ、ここに於てか尊王 の字初めて政治上の意味を含むに至り、尊王攘夷 の二語は雷(いかづち)の如く、疾風の如く、 須臾(しゅゆ)にして日本を一貫して至らざる所 なきに至れり。

 三叉さんの人となりや思想については未だ私の 知るところではないが、『「君主=国家」なる幼 稚なる思想』という記述にその片鱗をかいま見る おもいがする。また三叉さんは「尊皇」ではなく 「尊王」と表記している。「尊皇」という表記は 天皇を神格化し、その尊崇がファナティックに強 調されるようになった後の時代の用語であり、 三叉さんが『新日本史』を執筆した時代にはもっ ぱら「尊王」が使われていた。

 さて、本題は「尊王攘夷論」だった。上の引用文 によれば、水戸斉昭とその近臣・藤田東湖ら、つまり 「水戸学」を「尊王攘夷論」の「起原」としている る。

 一般には、幕末の尊王攘夷思想の代表人物とし ては、まず吉田松陰があげられよう。その松蔭が 強く影響を受けたというのが、会沢正志斎(あいざ わ・せいしさい)が1825(文政8)年に著した 『新論』である。『新論』に強い影響を受けたの は松蔭だけではない。それは幕末の志士の間に広 く流布し、多くの共鳴者を得ていたという。

 会沢正志斎は藤田幽谷(ゆうこく)の弟子で あり、幽谷は1791(寛政3)年に『正名論』を著わ している。幽谷の思想を継承・発展させたのが 門人の会沢正志斎と幽谷の子の藤田東湖であった。

 『正名論』と『新論』の内容はおおよそ次の ようである。(以下は、岩波講座「日本歴史13」 所収の尾藤正英「尊王攘夷思想」による。)

 幽谷が『正名論』を執筆したのは18歳のときだ という。早熟といおうか、天才といおうか、幕末 維新期にはこのような人物が輩出している。その 理由を考えるのも面白い問題だが、いまはおく。

藤田幽谷『正名論』

 『正名論』とは「正しい名分」論という意であり、 それまでの儒教や国学の立場からの「尊王」の 「名分論」を継承発展させたものである。例えば、 山鹿素行のそれは「道徳」としての名分論であり、 本居宣長のそれは宗教的な「神意」に基いた名分 論であった。それに対して幽谷の名分論は「社会的 機能」に着目して、「尊王論」に初めて政治理論 としての根拠づけを与えた。

『幕府(将軍)、皇室を尊べば、すなはち諸侯、 幕府を崇び、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・ 大夫、諸侯を敬す。夫れ然る後に上下相保ち、 万邦協和す』

 天皇の君主としての地位が不変であったことを、 日本の誇るべき伝統であるとし、将軍の尊王に は、社会の秩序を正しく維持するという大きな意 義があることを説いて、将軍は「王」としての 「名」を称すべきではないが、その「実」すなわ ち「王道」を実践すべきである、と幽谷は主張し ている。

 儒学の立場では「名」と「実」との一致が理 想とされ、「君、君たり、臣、臣た」(『論語』 顔淵篇)るべきことが要請されていた。これに対 して、幽谷の名分論では君主としての「名」は 「実」から分離される。つまり、天皇はただ 形式上・制度上の君主としての「名」をもちつ づけていることによって、かえって大きな政治 上の役割を果していると考えられている。君主が 君主たるべき徳性や能力を具備することは必要 とされない。君主として負うべき個人的な責任を 解除されている。これは裏を返せば、天皇には 「実」すなわち権限がないことである。

 寛政期の幕府は、形式上の尊王と実質 上の政務委任という対朝廷関係を明確化しよう としていた。幽谷の名分論によって基礎づけられ た尊王の理論は、まさにその幕府の考え方に対応 していたと言える。

 一方、攘夷思想も幕府の対外政策に対応して 形成されていったと言える。

 文化・文政期の幕府の対外強硬策(異国船打払 令など)は、強硬な方針を示すことにより、外国 船接近を牽制するとともに、日本の漁民などが外 国船と親しく交際することを禁じ、国内の人心の 動揺を防ごうという点に真の目的があり、戦争の 危険を冒してまで外国船を撃攘しようとする意図 はなかった。

 言論面ではどうであったか。寛政期以前に現れ た開国論(工藤平助・本多利明ら)は、主に経済 上の利害を問題としたものであり、林子平の唱え た海防府は専ら軍事的な見地からの立論であった。 それに対し、文化・文政年間に入ると、開国や鎖国 をめぐる議論は政治的なものになり、対外政策が 国内の人心に及ぼす影響を重視する立場からの 論が多くなった。その中でもとくに重要なのが、 会沢正志斎の『新論』である

会沢正志斎『新論』

 『新論』の論旨は、「民志を一に」(国民の心を統 合)して、国家の富強をはかるための方策を明らかに しようとするところに主眼がある。そこでは尊王と攘 夷とは、その国民統合を実現するための方法として位 置づけらた。

 神道の祭祀をつかさどるという天皇の宗教的な 側面が、民衆の心を「天威に畏敬悚服(しょうふ く)」させることになり、仏教やキリスト教など の「邪説」に民心が誘惑されることを防ぎ、民心 を国家目的への協力に統一せしめることができ る。これが「尊王」の理念の政治的意義である とする。

 同時に、政府(幕府)が強硬な外敵撃攘の方針を 明示することが、太平に慣れて弛緩した人心を 引き緊め、国家の統一性を強化し、武士や民衆の 敵愾心を鼓舞し、国力や軍備の充実に役立つであ ろうと言う。

 この意味での「攘夷」の理念は、単純な対外政 策であるよりも、むしろ国内に対するプロパガン ダとしての意味をもち、その点で「尊王」の理念 と共通した政治的性格をおびている。そこに 「尊王」と「攘夷」とが結合される必然性があった。 そして、この両者の結合により、国家としての統 一性を強めて、国内と国外との両面から迫る政治 的危機を克服しようとするのが、『新論』の中心的な 論旨であった。尊王攘夷思想はここにおいて一つ の体系的な政治理論として成立したと考えられる。

 この思想に含まれる攘夷の主張は、宣長の日本 中心の華夷思想に立脚しているが、幕府の 対外政策と同様に、盲目的に外敵を撃攘しようと するものでもなければ、また鎖国政策に固執しよ うとする考え方でもなかった。『新論』(原文は 漢文)は読み下し文に書き換えて刊行されているが、 そのときは『雄飛論』と改題された。国力を充実 させた上で、海外に進出し、「海外の諸蕃をして 来りて徳輝を観せしめ」、「四海万民を塗炭に拯 (すく)」うという、海外雄飛の構想こそがこの 著書の究極の目標という意での命名である。本書 が幕末の志士の間に多数の読者を得たのは、その ためでもあった。

 『国力を充実させた上で、海外に進出し、 「海外の諸蕃をして来りて徳輝を観せしめ」、 「四海万民を塗炭に拯(すく)」う』という 思い上がった誇大妄想が、大日本帝国の滅亡 にまで連綿と引き継がれていったことになる。

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