2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(10)


ヲホド(継体)の出自


 継体の出自を記紀は次のように述べている。

継体記
  品太(ホンダ)王(応神天皇)五世の孫、 袁本杼(ヲホド)命(継体天皇)。

継体紀
  男大迹(ヲホド)天皇、更(また)の名は 彦太(ヒコフト)尊は、誉田(ホンダ)天皇の 五世の孫、彦主入(ヒコウシ)王の子なり。


 出身地は、「記」では淡海国(北滋賀)、「紀」 では三国(越前)としている。

 さて、古事記では「五世の孫」、日本書紀では 「五世の孫」の子、となっている。このような系譜 の者はが果たして正当な後継者だろうか。古田さ んは次のような例を挙げている。

桓武天皇―葛原親王―高見王―平高望―国香― 貞盛
                        |―良持―将門

清和天皇―貞純親王―源経基―満仲―頼信 ―頼義―義家

 つまり、平将門や源義家が天皇位を継いだ ようなも、というわけだ。

 記紀は、ヤマト王権が支配権を拡大していく過 程で、支配と従属の方法として地方豪族をすべて ヤマト王権の縁戚として結び付けていく、その系 譜を記す書でもある。その中で「…天皇の五 世」など、ほとんどの豪族が該当するありふれた 存在でしかない。ヤマト王権の血筋にもっと近い 王子が近畿にたくさんいたはずだ。なのになぜ武 烈のあとに北志賀や三国の地方豪族なのか。 ヲホドのような僻遠の地方武将が大王位についた 例はない。

 また、将門や義家は上記のように系譜をたどれるが、 記紀ともに応神~継体の系譜を書いていない。分から なかったわけではあるまい。それを記録することは 王位継承の不当性を明記することになってしまうだ けである。北滋賀にも三国にも、系譜上において、 同資格かそれ以上の者もたくさんいただろうから。

 応神~継体の系譜について、古田さんは(第三 巻文庫版によせて参照)と注記しているのでそれを 調べてみた。

 『釈日本紀』巻13に引用されている『上宮記』 に「一に云う」という形で、継体系譜が記載されて いると言う。『上宮記』は逸文としてしか残されて いないが、記紀よりも成立が古いとされている。 それによると

凡牟都和希王(ホムダワケ 応神天皇)─若野毛 二俣王─大郎子(意富富等王)─乎非王─汗 王(彦主人王)─乎富等大公王(継体天皇)

となっている。また次のような文も引用されて いる。

「伊波礼宮治天下乎 富等大公王」
(イハレの宮に天の下を治らす、ヲホトの大公王)


 ここで古田さんは「大公王」という 称号に着目している。これは「王」や「大王」とは 異なる、かなり特殊なものである。『荀子・史記』 での使用例から、これは「大公プラス王」であり、 「大公」は「公」の敬称であることを明らかにし て言う。

昔、周公大公、周室を股肱し、成王を夾輔す。 (左氏、僖王、二十六)

 周代では、天子を「王」と称した。その成王 (武王の子。第二代)を補佐し、「左治天下」 したのが、周公である。だが、並みの「公」では ない。そこで尊んで「大公」と称されたものであ ろう。

 さて、継体系譜。ここでは、最高の称号は 「大王」。「王」はそれと同格ではない(ここに 「非、応神説」が生れる)。さらに「大公王」と なると、「大王」もしくは「王」に対する、補 佐の有力者、そういった称号なのである。

 この史料は、古事記・日本書紀以前の成立だ。 もちろん、継体が「イハレの宮」(奈良県) に入って、「天下を治らした」とされる、最晩年 以後の成立である。そこにこの称号が記せられて いる。これを一律に「天皇」の称号で〝統一″し たのは、やはり記・紀の「大義名分論」によるも のではあるまいか。

 次に不可解なのは、ヲホド(継体)が三国を出て から「イハレの宮」に入るまでにて20年を要した ことである。上の引用文で古田さんは、『「イハ レの宮」に入って、「天下を治らした」とされる、 最晩年』 という表現をしている。

 ワカサザキ(武烈)没後のヲホド(継体)の 行動を「継体紀」から拾うと次のようである。

(武烈八年、武烈没後)節を持ちて法駕(みこし) を備へて三国(越前)に迎へ奉る。

(継体元年)天皇、樟葉宮(河内)に行き至る。

(五年)都を山背の筒城(つつき)に遷す。

(十二年)遷りて弟国(おとくに 山城)に都す。

(二十年)遷りて磐余(大和)の玉穂に都す。 一本(あるふみ)に云はく、七年なりといふ。


 継体は20年にわたって大和盆地周辺(北・西部) をあっちこっち移動している。そのあと、やっと 大和に入れたのだ。「一本」に「七年」で入った と書いてあるが、これにについては、古田さんは 『これはいったんは「継体七年」に大和に入った ものの、不都合にあい、ふたたび盆地外(弟国) に出たものか』と分析している。

 20年という長期の大和空白は何を意味するか。

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