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《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(9)


「武烈紀」と「桀王・紂王」の故事


 なぜ「仁賢記」以降には説話がないのか。結論を先に 言ってしまえば、次のようである。

 「仁賢記」は次代のワカサザキ王(25武烈 仁賢の子ども) の治世に公布される、はずだったが、何らかの事 情でワカサザキにはそうできなかった。その何らかの事 情とはヲホド(26継体)の叛乱である。ヲホドは これまでの王統とはまったく違う系統を出自とす る。この新たに出現した王統は「次代または次々 代の治世に先行の時代の記録が作られ公布される」 という慣例を持たなかった。これが、古事記では 「仁賢記」以降に説話が書かれなくなった理由 である。

 このことを論証するための史料としては、古事記には 記録がないのだから、日本書紀を用いるほかない。 改めて日本書紀の史料性格を確認しておこう。 『「古事記」対「日本書紀」』 からその要点を抜き書きする。

 一つの史料を扱う場合、そこに「なにが書 かれているか」を論ずる前に、その史料の成り立 ちと素性、つまり「史料性格」を吟味しなければ ならない。皇国史観論者も戦後のヤマト王権一元 論者も、それをやらずに内容だけで論ずる弊を犯 しているために、記紀を区別することなく、双方 から自説に都合のよい部分だけを取り出して論を 組み立てている。

  『古事記』はヤマト王権内伝承 だけを用いて、内面からヤマト王権の正統性を語 ろうとしている。『古事記』はその伝承を記録す ることに徹している。そういう意味で、大がかり な「虚構操作」や「新編成」は行われていない。 これまでもっぱら『古事記』を用いて「ヤマト王 権史」を検討してきた理由である。

 これに対して『日本書紀』では、『古事記』 (ヤマト王権内伝承)にはないないものが ふんだんにあらわれる。その古事記にないものは 九州王朝の史書「日本旧記」、九州王朝と百済と の交渉史である百済系三史料(「百済記」「百済 新撰」「百済本記」)から、盗用・改竄して、 ヤマト王権そのものの歴史として編入し、新たに 構成したものである。つまりは、『日本書紀』は 決して「歴史理解の一説」として書かれているの ではない。近畿天皇家にとって「以後、これが史 実であり、これ以外は史実ではない」という、 近畿天皇家 の「正史」 として、 近畿天皇家の利害に則って 書かれたものである。いわば検定合格の国定版「公認の歴史」 である。

 さて、「武烈」では、ワカサザキ(武列)には 跡継ぎの子どもがなく、淡海国からヲホド(継体) を招いて王位を譲った、ということしか記録されて いない。これが「武烈」では、極悪非道な 王として、これでもかこれでもかといった調子で その猟奇的な言動が記録されている。

2年秋9月、妊婦の腹を割いてその胎児を 見た。

3年冬10月、人の生爪を剥いで、山芋を掘 らせた。

4年夏4月、人の頭の髪を抜いて木の頂上に 登らせ、木の本を切り倒して、登った者を落殺し て面白がった。

5年夏6月、人を池の堤の樋の中に入れて、 外に流れ出るのを三つ刃の矛で刺殺して喜んだ。

7年春2月、人を木に登らせて、弓で射落と して笑った。

8年3月、女達を裸にして平板の上に座らせ、 馬を引き出してきて面前で馬に交尾させた。女の 陰部を調べ、潤っている者は殺し、そうでない者 は、官婢として召し上げた。これが楽しみであっ た。

その頃、池を掘り、苑を造って鳥や獣で満たした。 そして狩りを好み、犬に追わせて馬を試した。 大風や大雨も避けることがなく、出入りが気まま で、自らは暖衣をまとい、百姓のことは意に介さ ず、美食を食して天下の民の飢えを忘れた。

大いに侏儒(ひきひと)や俳優(わざおぎ)を集 めて淫らな音楽を奏し、奇怪な遊び事をさせて、 ふしだらな騒ぎをし欲しいままにした。日夜後宮 の女達と酒に溺れ、錦の織物を褥とした。綾や白 衣を着た者も多かった。


 このような近畿天皇家の「正史」の品格をおと しめるような記述を、なぜ敢て残しているのだろ うか。いかにワカサザキが暴虐であったか、大王 たるにふさわしからぬ下等な人物であったか、そ の一事を力説し強調しようとしているのだ。次代 の大王・ヲホトの正当性を強調するために。

 これには先例がる。中国の「桀(けつ)王」 「紂(ちゅう)王」の故事である。

 二人とも暴虐淫乱の暴君として描かれている。 桀は臣下の湯王によって討たれ、夏王朝最後の 天子となり、殷王朝が成立した。また、紂は武 王に討たれ殷王朝最後の天子となり、周王朝の 成立をみた。

 武烈紀・継体紀はこの故事に倣ったものだった のかもしれない。だとすれば、この故事の分析が 同時に武烈紀・継体紀の解明につながるだろう。

桀、徳に務めずして百姓を武傷す。百姓堪えず。(『史記』夏本紀、第二)

(帝紂)好酒、淫楽、婦人に嬖(へい)す。姐己 (だっき)を愛し、姐己の言に是れ従う。……酒を 以て池と為し、肉を懸けて林と為す。男女をして 裸にて其の間に相逐わしめ、長夜の飲を為す。 (『史記』殷本紀、第三)


 このような暴虐淫乱記事、それは何を意味する か。彼等が本当にそうだったことを語るのか。  ― わたしは知らない。

 なぜなら天子の行状など、一般の庶民には分り はしない。かなりはでに書かれている紂王のケース ですら、天下のほとんどの人民にとって、日常世 界の見聞からは、はるかに遠い、別世界のことだ ったのではあるまいか。

 それぞれ、桀王の暴虐は、次の殷になって、また 紂王の暴虐は、次の周になって、はじめて全天下の 住民に公布されたものではあるまいか。

 逆に、その当の桀王や、当の紂王の時代には (もし彼等自身にうしろめたさがあればあるだけ) 、それらの王の帝徳や仁愛が強調され、宣布されて いたのではないだろうか。まかりまちがっても、 右のような文章が当時出まわっていたはずはない。

 ポイントはそこだ。彼等はいずれも、その王朝 の最後の天子たった。(中略)代って新王朝成立したの である。ところが、当時において、これは天下の 大反逆だった。天子に対して反旗をひるがえした、 この大反逆者。彼は成功後も、そのような人民の 批判の目に悩んでいたはずだ。それは武力では補 えぬ観念の霧だった。いわゆる共同幻想だ。

 これを絶つために、湯王か天下に公布し、流伝 せしめたもの、それが桀王の暴虐説話だった。 「わたしの挙兵は、皆から見れば、許しがたい 大逆と見えるかもしれぬ。しかし、実はあの桀王 は、たいへん暴虐な人物だったのだ。だから、 止むをえなかったのだ」という弁明なのだ。

 だから、今回はその殷王朝の最後の天子、紂王 が標的とされた。桀王の場合以上に、その非が鳴 らされた。それはおそらく、紂王の実際の悪業に 比例したというより武王の挙兵に対する一般の非 難の目、それにこそ比例していたのではあるまい か。

(中略)

 〝輝ける紂王″のイメージが満天下にひろがっ ていればいるほど、それに対する挙兵の不当の方 のイメージは強いであろう。 ― それを消し去 ること、それが革命成功直後の武王、否、周王朝 の全期を通して、最大の課題となった。それが先 の悪名高い「酒池肉林」の記事だ。

(中略)

 わたしたちはその真相を知らない。ただ知るこ とができる。〝紂王の悪虐公布は、すなわち武王 の「不法」の反乱の正当化、ひいては周王朝自身 の統治の正当化であった" ― この一事を。

 以上、自明のことを縷々のべたのは、他でもな い。『日本書紀』の武烈紀の継体の執拗な暴虐記 事、その背景は何か。当然、次なる継体の即位、 それが順当でなかったこと、もっとはっきりいえ ば、極めたる不法の即位であったこと、それを逆 に証言しているもの、そう考えざるをえない。 そうでなければ、あれほどくどく徹底的に武烈の 悪虐を宣伝する必要はないのである。

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