2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(7)


目弱(まよわ)王の乱・忍歯(おしは)王の難(2)


まず、「押木の玉縵」「目弱王の乱」に対する古田さんの見事な分析を そのまま掲載する。

 この説話も、一見筋立ては明白だ。だが、よく考えて みると、謎に満ちている。その不審な点を列記してみよ う。

(一)「押木の玉縵」

 最初の根臣の虚言譚も、大変不自然な話だ。そのよ うな見えすいた虚言を安康の使者たるものが行う、と いうのは、ちょっと考えにくいところだ。

 だが、もしその通りだった、としよう。では、なぜ その結果、安康は「大日下王の妻」を横どりしたのか。 これは、先の虚言問題からは、何の必要もない。若日 下王を大長谷王子のために得ようとしたのであるから。

 むしろ、次のように考えてみよう。安康の真の目的 は、はじめから「大日下王の妻を得る」ことにあった と。こう考えると、一種の混乱と矛盾に満ちたこの説 話も、一転して、その筋がハッキリと見えてくる。つ まり、安康は、大日下王の妻の長田大郎女に執心した。 その目的をとげるため、ことにかこつけて大日下王を 殺してしまった。こういうことだ。

 根臣の虚言問題は、この大日下王殺しが、安康の責 任ではなく、根臣のふらちにあやまられたせいだ、そ のように告げたいための作り物の話だ。

 安康記は、兄の安康の仇を討つことを大義名分とし て挙兵した雄略(第21代)、およびその子(清寧、第 22代)の頃、作られた。 - そのような立場に立て ば、以上の経緯はきわめて分りやすい。

(二)「目弱王の乱」

 問題の目弱王の乱。生き生きと語られ、一読、印象 鮮明な、否、一度聞いたら忘れられぬ話だ。だが、 考えてみると不審だらけだ。

 第一、この安康の昼寝語りを誰がこの語り手に伝え たのだろう。語った安康は、殺されてしまった。御殿 の下で聞いた目弱王も、死んでしまった。では、母の 長田大郎女だろうか。彼女の行方は、説話では語られ ていない。しかし、母親が子供の犯行の背景を、とく とくと他に語るものだろうか。

 第二、それ以上に、肝心の目弱王の犯行、それ自身 本当だろうか。一体、それを誰が見たのか。殺した者 も、殺された者も、すでにいない。そしてその犯行は、 二人以外に誰もいないところで行われたはずなのだ。

 要するに、別個の誰かが、そう判断し、その判断を 噂として流布させた。そういう流布させた誰かがいた こと、これは疑えない。それが真相かどうか、誰もす でに知りえないのである。

 第三、7歳の子供の犯行、そんなものが本当にあっ たのだろうか。大人の身につけていた大刀を、そんな 子供がうまくあつかえるものだろうか。

 さらに問題がある。次の雄略が124歳で没した、と 書かれているように、このへんも例の「二倍年暦」だ。 とすると、ここの7歳は、通例の暦(太陰暦でも、太陽 暦でも)では、3歳半となろう。いよいよもって、この 惨劇の実行者としては不適切だ。

 だが、よく考えてみよう。ここで〝7歳ならできる。 3歳半ではとても〟などという議論をしてみても、実は はじまらない。その犯行を誰一人見た者はない。要は、 そういう噂が流されたこと、それが真のポイントだった のである。その噂には、「まさか、そんな子供が…」と いう意外性の方が、むしろ必要だったのではあるまい か。すでにその子供は守り手と共に亡んでしまった。 真相はすでに闇の中にあって、誰も知らない。

 第四、雄略が二人の兄を斬殺もしくは埋殺したその理 由、これもはなはだ無茶だ。いくら古代でも、こんな 理由で兄殺しが実行されるものだろうか。到底解 (げ)しがたい。

 こんな奇妙な動機の兄殺し、これは後代の(6紀以 降の)造作者、宮廷内の史官などが作れる話ではない。 なぜなら神聖なるべき歴史上の天皇に対し、粗暴きわ まる乱暴者の性格づけを敢えて刻印するものであるか ら。

 以上の矛盾と不審、これを解くために、ことの筋道 を順序立てて列記してみよう。

①安康はある日、誰かに殺された。

②それは「あの目弱王に殺されたのだ」という噂が誰 かによって流された。

③目弱王は、危険を感じ、守り手(乳母の家などか) の都夫良意美の家へ逃れた(もちろん、王の側近者の 導きによるものであろう)。

④大長谷王(雄略)は「兄の安康天皇の仇を討つため」 という大義名分をかかげて挙兵した。

⑤しかし、二人の兄(黒日子王・白日子王)はそれに 同調しなかった。

⑥大長谷王はまず、この二人の兄を殺してしまった。

⑦次いで、大長谷王は、都夫艮意美の家を囲み、目弱 王と共に、これを斃(ほうむ)った。

⑧そのあと、大長谷王は王位(天皇位)に即位した。 雄略(第21代)である。

⑨その雄略(もしくは第22代清寧)の治世に、先に あげた形の説話が作られ、公布された。


 リアルな事実の進行は以上のようであったとわたし には思われる。一連の異常時の成果を手にした者、 それが雄略天皇その人であったこと、それを疑うこと は誰人にもできないのではあるまいか。

 安康記の後、古事記の記録は雄略・清寧・顕宗 ・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・ 用明・崇峻と続き、最後は推古記で終わる。しかし、 どういうわけか、説話は顕宗記をもってとだえる。 継体記には「磐井(いわい)の叛乱」の 簡単な記述がある外、仁賢記以降は例の「子孫に ついての記録」ばかりである。

 前回の 系図で示したように、説話が断絶する境目に位置 する大王の顕宗と仁賢こそ、播磨国に逃れた忍歯王 の子どもの袁祁(ヲケ 23顕宗)と 意祁(オケ 24仁賢)である。最後の説話は 「忍歯王の難」のいわば後日譚にあたる。

 また、・顕宗記の前の清寧記には清寧の説話が まったくない。もっぱら意祁・袁祁の兄弟(意祁の 方が兄)の話である。

 なぜ清寧記に清寧がなく、仁賢記以降に説話がな いのか。この問題点を解明するのが次回のテーマで ある。そしてその問題は、このシリーズ『ヤマト王 権・王位継承闘争史』の最後の問題、「継体の謎」 の解明、つまり「ヤマト王権の断絶」という問題に つながっていく。

「磐井の叛乱」については

天皇制の基盤を撃つ―真説・古代史(7)

をご覧下さい。

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