2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(4)



 ヤマト王権で即位年代が特定できるのは継体からで あるが、高校生用図表には応神(15代)からの系統図 が掲載されている。(以下、カッコ内の数字は歴代数 を表す。)

ヤマト王権系図

(第一学習社「日本史図表」より)

 ところで、書棚から「日本古代史の謎」(水野祐早稲 田大学名誉教授)という通信講座の本が出てきた。 以前息子が、かみさんの母親(ようするに祖母)からいただいたものらしい。パラパラ めくっていたら、ヤマト王権の歴代大王は実在した 人物か架空の人物かとう問題が扱われていた。この問題を 学者がどう説いているのか興味が出てきてチョッと調べ てみた。

 それによると、初期9代と垂仁(10)・景行(12) ・安康(20)・清寧(22)・顕宗(23)・仁賢(24) ・武烈(25)・宣化(28)は架空の大王とされている。その論拠は 次のようだ。

「架空天皇を探すには、『記紀』編纂者たちの意図や 天皇についてどのような伝承があったのかを推理しな ければなりません。そのための有力な史料が、崩年干 支註記のある『古事記』です。崩年干支註記は、 『記紀』編纂よりずっと古い時代の『帝紀』に基づい たものとみられ、註記のある天皇は実在と思われます。 そして崩年干支註記と『日本書紀』の編成方式、その 二点に着目すると、崩年干支註記がなく『日本書紀』 の一紀一巻の原則に反する天皇は架空である可能性が 高いとみられます。」

 「『記紀』編纂者たちの意図」を推理するという 方法論が、記紀の記述の不可解な部分・不都合な部分を 全て8世紀吏官(『記紀』編纂者)の「造作」として しまう恣意的な「定説」を導く。水野教授も 「造作説」学者のようだ。

 また、
①古事記で「崩年干支註記」がある
②日本書紀で「一紀一巻の原則」にかなっている
の2点(上文では「①かつ②」と読めるが「①または②」 らしい。)を実在性の決め手としているが、 このような形式主義ではまともな判定はできないだろ うと、容易に予測できる。実際にどのように判定して いるか、みてみよう。

①かつ②のもの
「崇神・仲哀・応神・仁徳・雄略・継体・敏達・推古」 は実在。

①だが②ではない(二紀一巻になっている)もの
「履中・反正」と「用明・崇峻」だが、「これらの天皇 は旧辞が少ないか在位期間が短いための合巻である」 から実在。

「②ではなく一方が①」のもの
「景行・成務」「允恭・安康」「安閑・宣化」の三組 ある。各組で①ではない方の景行・安康・宣化が架空。①を満たす 成務・允恭・安閑は実在。合巻にされたのは成務・允恭 ・安閑の旧辞が少ないため。

①でないが②のもの
「神武・垂仁・武烈・欽明」について
神武・垂仁・武烈は架空だが「歴史的に重要な意味 を付与され」ているので②になっている。「欽明」 は実在(理由は書かれていない)。

①でなく②でないもの
すべて架空。

 ①、②というふるいを用いているけど、 結局厳密には適用されず、恣意的な選定でしかない。 学者さんというのはこんなんでも納得してしまう のかね。

 さて、本題に戻る。

 上の系図にあるように、仁徳(16)のあと、 子供の履中(17)・反正(18)・允恭(19)と順次、 兄弟三人が王位を継承している。履中記には「墨江中 王(すみのえのなかつのみこ)の反逆」という王位継承闘争説話がある。また、 允恭記にはかの有名な「軽太子(かるのひつぎのみこ) と衣通王(そとほしのきみ)」の悲話が ある。この悲話も王位継承闘争説話と考えられる。

 「墨江中王の反逆」のあらましは次のようである。

 大嘗(おおにえ)の夜のこと、履中の弟・墨江中王 が履中を殺そうと大殿に火を放った。 阿知直(あちのあたえ)が眠り込んでいる履中を連 れ出した。 履中は多遲比野(たぢひの)に差し掛かったころ、 ようやく目を覚ました。阿知直は「墨江中王が大殿 に火を放ち、 兵を率いてヤマトに逃げた」と告げた。

 墨江中王の弟の水歯別命(みずはわけのみこと  履中・墨江中王・水歯別命は同母兄弟)はこの事件 を知ると履中を心配して急いで履中を見舞った が、履中は水歯別命にも疑いをもち、会ってはくれなか った。水歯別が「私には謀反の心はありません。墨江中王とは 違います。」と伝えると、履中は「墨江中王を殺してきたら 会おう」と応じた。

 水歯別命は墨江中王の近くに仕えていた隼人(はやしと) ・曾婆訶理(そばかり)を欺いていった。
「もしお前が私の言葉に従えば、私が大王になり、 お前を大臣にして、二人で天下を治めようと思う。」
曾婆訶理「命に随います。」
水歯別命「ではお前の主の墨江中王を殺せ。」

 曾婆訶理は墨江中王が厠に入った隙に矛で刺し殺した。 水歯別命は曾婆訶理を大臣に任命して祝の宴を設けた。 そこでおおきな酒椀に酒を盛り、まず自分が飲み、 次にその椀を曾婆訶理に渡し、酒を勧めた。そして 曾婆訶理がその椀で顔を覆って酒を飲んでいる隙に 隠しておいた剣を取り出して曾婆訶理の首を切り落と した。

 その翌日、水歯別命は履中に首尾を告げて、会うことを 許された。履中は阿知直を蔵官(くらのつかさ)に任命し、 領地も与えた。


 反逆者が正当な王位継承者で征討者の方が実は 反逆者だったというのが、記紀の王位継承説話の 常道のようだ。この説話の解読はもう私にもできるが、 今まで通り、古田さんの解読を引用しておく。

 まず、〝大殿に火が出た″こと、これは確かであろ う。しかし、その火炎が放火であり、その放火犯人が 墨江中王であること、さらにその放火の意図は履中殺 しにあったこと、それは果していかにして確認された ことなのであろうか。

 ともあれ、そのように、履中に告げた者がいたこと は確かなようだ。それは誰か。履中が水歯別命に「犯 人(兄)殺し」を命じたところから見ると、そのよう に告げた者もまた、水歯別命、またはその手の者であっ た可能性があろう。

 そして犯人(墨江中王)は首尾よく殺され、水歯別 命が次の位に即いた。第18代の反正だ。そして右の履 中記の説話は、この反正のとき、作られたのだ。

 その説話の背後に隠された真実を誰が知ろう。知りうる こと、それは「反正の兄殺し」が正当化されている、 その一点である。

 なお、その兄を殺して王位についた反正の記録 (反正記)には、説話がない。子孫の記録だけである。 子の中に財(たから)王という王子がいた。しかし、 冒頭の系図で分かるように、王位についた仁徳の3人の 子供のうち、反正だけはその子供や孫で王位を継いだ 者がいない。反正記に説話がないのはそのためだろうか。

「 前代の天皇の治世の説話は、次代もしくは次々代の 天皇の利害によって選定・伝承・造作された上で公布さ れる。 」

 反正は後代においては無視されたことになる。記録さ れないことが記録になっている。実にあからさまな処遇 ではないだろうか。

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