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《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(2)


応神から仁徳へ


 応神には男子11女子15計26人もの子がいた。そのうち、 王位継承闘争に関係するのは次の5人である。

(母 ─ 子)
入日売命 ─ 大山守命(おおやまもりのみこと 仁徳の兄)
中日売命 ─ 大雀命(おおささぎのみこと 仁徳)
(入日売命と中日売命は姉妹)

              宇遲能和紀郎子(うぢのわきいらつこ 仁徳の弟)
宮主矢河枝比売 ─<
              女鳥王(めどりのみこ)

糸井比売 ─速總別命(はやぶさわけのみこと)



 骨肉相争う悲劇の発端は応神記の次の説話である。

 応神が大山守と大雀の二人に問うて言った。
「お前達は兄と弟のどちらが可愛いと思うか?」
 長兄の大山守は即座にと答えた。
「兄の方が可愛いです。」
 大雀は天皇の心のうち(下の弟の宇遲能和紀郎子を 可愛がっている)を知っていたので次のように答えた。
「兄はすでに大人に成長しているのでとくに心配はない ですが、弟はまだ成長を遂げていないので守ってやらね ばならないので弟の方が可愛いいです。」
 これを聞いた応神は
「大雀の言うとおりだ。私が思っていたことと同じだ。」
そして、続けてさらに次のように自らの遺志を伝えた。
「大山守は山海の政をせよ。大雀は天下の政をせよ。 そして宇遲能和紀郎子を私の後継者としなさい。」
 大雀は父のこの命令に違(たが)うことがなかった。


  応神の死後、大雀命は父(応神)の命に従って 大王位を弟の宇遅能和紀郎子に譲った。ところが 大山守は父の命にそむいた。

『大山守命は天皇の命に違ひ、猶天の下を獲むと欲(おも)ひて、 其の弟皇子を殺さむの情(こころ)有りて、竊(ひそ) かに兵(つわもの)を設(ま)けて攻めむとしき。』

 それを知った大雀は急いで使者を遣って宇遲能和 紀郎子にそのことを知らせた。
 宇遲能和紀郎子は聞き驚き、宇治川のほとりに兵を 潜ませ、またその山上に帷幕を張り、舎人を王に仕立 て呉床(あぐら)に座らせた。そして自分は布の衣褌(きぬばかま) を着て賎人の姿となり、船の床にすべりやすい仕掛け を仕組んでその船に乗りかじを執っていた。
 大山守は兵を隠し、衣の下に鎧を着こんでやってき た。彼は呉床に座っているのが弟王と思いこみ、 船に乗り込んで船頭に変装した弟王に問うて言った。
「この山に怒れる大猪がいると聞いた。私はこれから その猪を取りに行くつもりだが、猪は取ることができる だろうか?」
「できないでしょう」
「なぜ、そう思うのだ?」
「時々の運によって取ろうとしても取れないものです。」
 河中まで来たとき、船頭は船を傾けて大山守を水中 に堕した。そこで河の辺に伏せ隠していた兵士が いっせいに出てきて大山守を矢刺しにして流した。 その屍は訶和羅の前(山城国綴喜郡河原村)で沈んだ。 その屍をひきあげ、那良山に葬った。


 このあと、有名な互譲説話がしるされている。

 大雀命と宇遅能和紀郎子は、「天の下」を譲りあって 多くの日を経た。
 海人(あま)が大贄(おおにえ)を貢(たて)まつ たとき、兄は辞して弟に貢らしめ、弟は辞して兄に 貢らしめて譲りあうこと再三にわたった。そこで、 海人はもはや往き還に疲れて泣いた。そこで諺に
「海人や、己が物に因りて泣く」
という。

 宇遅能和紀郎子は早く崩じた。そこで、 大雀命が天の下を統治することになった。


 この王位継承譚に関連して、仁徳記に見逃せない後 日譚がある。宇遅能和紀郎子の同母妹(仁徳の異母妹) の女鳥王(めとりのみこ)と、その三人にとっては 異母弟にあたる速総別王(はやぶさわけのみこ)の 悲劇である。

 仁徳(大雀命)は、亡くなった宇遅能和紀郎子の 妹の女鳥王を妃の一人に加えたいと思い、弟の速総別 王を媒(なかびと)として彼女のところへ遣わした。
 ところが、女鳥王は、
「大后(仁徳の正妃)の勢力が強いので、八田若郎女 (大后の嫉妬にあう)の場合もどうにもおできになら なかった。だから、わたしは仁徳にお仕えしたくあり ません。わたしは、あなた(速総別王)の妻に為りた いのです」
と答え、二人は相婚し、速総別王は復奏しなかった。
 そこで仁徳が直接、女鳥王のところへ行ったところ、 彼女は機を織っていた。仁徳がそれは誰の服を織っている のかとたずねると、女鳥王は、

高行くや 速総別の 御襲料(みおすひがね)

と答えた。仁徳はその心を知って還った。
 こののち、その夫の速総別王がやって来ると、 女鳥王は、

雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 鷦鷯(さざき)取らさね

と歌った。(大雀命を殺せ、という意味)
 仁徳は此の歌を聞き、軍を興し、二人を殺そうとし た。
 二人は一緒に逃げて、倉椅山(大和国十市郡の山) に登った。さらにそこから逃げて宇陀の蘇邇(大和国宇 陀郡の東辺の曽爾谷)に到ったとき、仁徳の軍が追い 到って二人を殺してしまった。

 そのときの仁徳の軍の将軍、山部大楯連は女鳥王の 手にまかれていた玉釧(たまくしろ)を自分の妻に 与えていたのが、仁徳の大后に発見され、死刑に処せ られた
「己が君の御手に纏かせる玉釧を、膚(はだ)も 熅(あたた)けき に剥ぎ持ち来て、即ち己が妻に与えつる」
といのが、その罪名だった。


 以上の説話を古田さんは次のように分析している。

 応神の死後、まず大山守命が斃される。そのさい、 二つの注目点がある。

①本来は、弟二人より彼の方が正統の継承者としての 資格があったはずである(母が応神の妃となった三人 姉妹の長姉であり、本人も年長)。
②大山守命誅殺の経緯は、大雀命の意図に従って進行 しているように見える。

 大山守命の罪状としては、
『大山守命は天皇の命に違ひ、猶天の下を獲むと欲(おも)ひて、 其の弟皇子を殺さむの情(こころ)有りて、竊(ひそ) かに兵(つわもの)を設(ま)けて攻めむとしき。』
と記されている。
 つまり、兄(大山守命)の内心には、そのような気持 があった。そのため、ひそかに準備していた。これが 罪名なのである。

 疑いなく存在した事実、それは応神の死後、大雀命 が行動をおこし、兄を殺させた。この一事だ。その理 由として、「兄の内心と未発の準備」があげられてい るのだ。

 ここで、前にあげた公理を思い出してほしい。
「A天皇の治世の説話は、次のBまたはC天皇のときに 作られる」と。

 応神記の説話は、次の仁徳の治世、またはその子の 履中の治世に作られた。すなわち、大雀命(仁徳) の策略が成功し、兄(大山守命)を亡き者にしたあと、 残った側の手によって作られたものなのである。

 とすると現実は兄殺しだ。その兄殺しの正当化、 それが、実は彼の内心がしかじかであり、その準備が なされていたから、止むをえなかったのだという理由 づけだったのである。

 大山守命が本当に右のような異心を内心に抱いていた か否か、誰が知ろう。確かなこと、それは、仁徳とそ の子(履中)たちは、人民に対し、そのように信じさ せたかった。この一事である。

 次の互譲説話。敗戦前の皇国史観の時代、これは 天皇家の美談として特筆されるを常とした。しかし、 本当にそうだろうか。

 もし大雀命が父の遺命に忠実であったとしたら、 弟の宇遅能和紀郎子を王位(天皇位)につけ、自分 は臣下の姿を厳に保っていたことであろう。そうで あれば、海人はどちらにもってゆくか迷うことはな かったのである。

 しかし現実はそうではなかった。大山守命を斃し た実力者が大雀命であることは、誰にも知られてい た。勢威もこちらにあった。だが、表面の名分は、 父の遺志によって宇遅能和紀郎子にある。

 右のような実勢力者と名分者の両立、そういう現 実があったからこそ、海人の迷うような状況が生れ たのではないだろうか。とすれば、この説話は、大 雀命が「父の遺志」を守ったため、というより、 守らなかったため、という方がより真実に近いので はあるまいか。

(海人の諺は本来は生鮮物〈魚など〉を売り余したときの漁師のなげきをもとにした、教訓めい た諺であろう。やがて、もてる者の悩みの意か。)

 右のような分析を、必ずしもことさら意地悪な視点 に非ず、と思わせるのは、仁徳記の女鳥王と速総別王 の悲話だ。

 ここでも女鳥王の罪状は彼女が仁徳殺しを (速総別王に対して)示唆した歌を歌い、仁徳 がそれを聞いたことになっている。

 しかし、すでに二人が殺されたあと、履中 (仁徳の子)か反正(同)のとき、この説話は 作られた。その歌の真否、-それは仁徳だけが知って いる。

 そして大事なこと、それはこの「女鳥王殺し」 とは、とりもなおさず宇遅能和紀郎子の同母の妹殺 しだということだ。この女鳥王殺しによって、宇遅 能和紀郎子系の親族の中の大雀命(仁徳)の即位に 対して異を唱える者は消滅させられてしまったので はあるまいか(八田若郎女を除く)。

 A・B・Cの三人がいた。Aと、Bの一族は消された。 それぞれ邪心をいだいていた、という理由で。 ─そしてCが即位した。簡単にいってこのような状 況なのである。

 以上がわたしの分析だ。

 戦前の皇国史観では、このような分析はとんでもないこ とだった。

 戦後の津田流の造作説でも、右のような分析は不可 能だった。なぜなら6~8世紀の吏官という、もう直接 には何の利害もないような後代の人間が、面白おかし く造り上げたもの、そのように解する立場だからであ る。

 わたしの立場はそれとは異なる。応神記や仁徳記の 説話は、実際は王位(天皇位)の纂奪者であった大雀 命(仁徳)やその子たちにとって、その汚名を雪(そそ) ぎ、自己の王統を正当化するための、それらは不可欠の 説話であった。そのように解するものだからである。 そのように解するときにのみ、それらの背景は、にわ かに真実(リアル)な色彩を帯び、各人物は躍 動しはじめる。生命をもつ。そのように感ずるのは、 果してわたしひとりの主観だろうか。
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