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不定期便900 《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(1)


景行紀と成務紀の謎


 以前に提示した「古代史年表」を必要な部分を加筆 して再録する。ヤマト王権の歴代大王で在位期間が特 定できるのはヲホド(継体)からである。それまでの 25代の大王については、とりあえず在位順に記入した だけのものです。

古代史年表

年代 中国 朝鮮 倭国 東鯷国・ヤマト王権
BC4th 戦国時代 青銅器文化始 銅矛文化圏 銅鐸文化圏
BC3th 秦(221-206) 鋳造鉄器伝播    
BC2th 前漢(202-)   国ゆずり・天孫降臨「天国→筑前」  
  漢・朝鮮に4郡設置(BC108-107) 錬鉄鍛造品 朝鮮からの渡来者多数  
BC1th   高句麗国成立 橿日宮の女王の筑紫統一「筑前→筑後」  
BC1th-AD1th     前つ君の「九州一円統一」  
BC1th-AD1th     「九州→淡路島以西」平定  
AD1th 後漢(25-)   漢から委奴(ゐど)の国王に金印授与される(AD57)  
AD1th-AD2th       イワレヒコ日向から東征へ
AD3th 三国時代・魏(220-265)     東鯷国、漢に貢献する(216)
      邪馬壱国卑弥呼・魏に朝貢(240) イワレヒコの末裔AD3th末ごろまでヤマト盆地の一豪族として地歩を固める
  西晋(265-316) 三韓時代 壱与・西晋に朝貢(266) ミマキイリビコ(崇神)がヤマト盆地より出撃・東鯷国簒奪開始
AD3th-AD4th       イクメイリビコ(垂仁)沙本城の戦い・東鯷国滅亡
AD4th 西晋滅亡(316)     オホタラヒコ(景行)・ヤマトタケル・ワカタラシヒコ(成務)
  東晋(317-420) 百済・肖古王(346-374)   タラシナカツヒコ(仲哀)・オキナガタラシヒメ(神功皇后)
    新羅・奈勿王(356-401)   ホンダ(応神)ここまで「古事記」中巻
AD4th-AD5th 高句麗・好太王(391-412) 倭王・讃(396-421)東晋に使者(413) オオサザキ(仁徳)・イザホワケ(履中)
AD5th 南北朝:南宋(420-)・北魏(439-)    倭王・珍(425-438)宋に朝貢(438) ミツハワケ(反正)・ヲアサヅマワクゴ(允恭)
      倭王・済(443-460)宋に朝貢(443) アナホ(安康)・ワカタケ(雄略)
      倭王・興(462-477) タケシロクニオシワカ(清寧)・イワヲケ(顕宗)
AD6th     倭王・武( 478-519)宋に上表文(478) オケ(仁賢)・ワカサザキ(武烈)
      継体のクーデターで筑紫の王・磐井暗殺される(528) ヲホド(継体)(507-531)
AD6th-AD7th 隋(589-618)   俀国の王タリシホコ(日出ずるところの天子)遣隋使・国書を送る(607) 聖徳太子摂政(593-622)
AD7th 唐(618-)     推古・遣唐使を送る(630)
    白村江の戦い・百済滅亡(663) 倭国衰退・滅亡  
AD7th-AD8th 則天武后(690-705) 新羅統一(676-)    
AD8th 唐、ヤマト王権を日本国として承認     この年より日本国(701)



 前回はこの表の「イクメイリビコ(垂仁)沙本城の 戦い・東鯷国滅亡」のところまでを取り上げた。 今回からはその後の「景行紀」から「継体紀」まで の王位継承の顛末に焦点を当てることとなる。

(以下、ヤマト大王名は漢風諡号を用い ることにする。)

 垂仁紀のあとの景行紀と仲哀紀についてはすで に何度か詳しく取り上げている。以下を参照して ください。

「2005年8月9日 第356回 「熊襲」とはどこか(1)」 ~「2005年8月15日 第362回 「熊襲」とはどこか(7)」

「2005年8月16日 第364回 九州王朝の形成(1)」 ~「2005年8月22日 第370回 九州王朝の形成(7)」

「2005年12月4日 第406回 激動の朝鮮半島(10)」

 さて、景行紀と仲哀紀はたくさんの説話が挿入され ている。しかし奇妙なことにその間の成務記紀には説 話がまったくない。成務「記」などはその文字数は 初期9代以下である。しかしその内には国造や県主を 定めたという重要な記事がある。これはヤマト王権の 基本的な制度を定めた重要な治世であることを示して いる。それなのに説話がまったくないとは?

 実は景行紀も奇妙なのだった。「景行」紀といいな がらその中身は小碓命(ヤマトタケル)の物語ばかり で景行その人の業績はほとんど何も書かれていない。

 この種の問題を解くカギは、権力内部での説話伝承 の方法の中にある。

 前代の天皇の治世の説話は、次代もしく は次々代の天皇の利害によって選定・伝承・造作さ れた上で公布される。

 従って、ある説話が史実 が史実であると言う場合も、次代あるいは次々代の 天皇の時代にその天皇の側からそのような「説話が 選定、伝承、造作、公布された」そのことが史実だ ということを意味する。

 これから記紀の記録をもとに「ヤマト王権の王位継 承闘争史」を読み取っていくわけだが、説話に対する 以上のような理解がそのための大きな武器となる。 例えば、「景行紀」と「成務紀」の謎を古田さんは 次のように解いている。

 景行(12代)の次代(13代)は成務。その次(14代) は仲哀だ。その仲哀の時代に、この景行記が作られた と考えてみよう。その仲哀は、前代の成務の子ではない。 問題の小碓命の子なのである。つまり景行~成務と 仲哀の間には、系譜上の断絶があり、仲哀は小碓命系 なのだ。

 そして果然、景行記に景行その人は不在に近く、もっぱら小碓命の功業が麗々しく、その 記を満たしているのである。そして仲哀当人をふくむ小碓命系譜まで、景行記の中に特別席 を与えられているのだ。何と露骨なやり口だろう。

 これに対し、「景行その人には、たいした逸話がなかったから」。こんな説明をする人がい るだろうか。いたとしても、そんな説明に誰が納得するだろうか。

 その理由は他にはない。景行~成務系をさておいて、王権を獲得した仲哀の治世、景行そ の人や成務その人の説話を選定することは喜ばれなかった。仲哀の利益に反したからである。 景行記に景行の説話なく、成務記に成務の説話がない。それはこのためだ。成務の治世には、 前にもすでにふれたように、

大国小国の国造を定め賜ひ、亦国国の堺、及び大県小県の県主を定め賜ひき。(成務記)

とあるように、天皇家の制度が定められた重要な治世だ。その治世に逸話がなかったことな ど、考えられない。「後世造作説」(津田史学)に立ったとしても、ここに説話を「造作」し ないことは、おかしい。これに対し、これを仲哀治世の利益に立つ場合には、容易に了解し うるのである。すさまじいまでの当代(作った治世)の利益の反映ぶりではあるまいか。

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