2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
戦争意志とは何か(17)

「人事刷新」による〈地位〉の獲得


 『支配とは何か』の第6章「戦争意志 - その 動力としての〈事務官僚〉」は、東京裁判で被告と なった高級官僚(軍事・行政官僚)の責任問題を論 じた丸山真男の言説に対する批判を骨格として論じ られている。この章を読んでいたら、戦争責任に限 らず責任一般の問題として、責任の所在 (「組織」か「個人」か)、あるいは責任の質 (「法的」か「道徳的」か)といったような大きな 問題が次々と頭に浮かんできた。これは稿 を改めて取り上げるべき問題だと思った。そこでこ こでは問題を広げずに、「戦争意志の動力」に 絞って進むことにする。

 丸山真男は大日本帝国の体制の「もっとも深い病理」 を〈無責任の体系〉と呼んでいる。それを批判軸として 軍部に適用すれば、次のような支配構成を描くことに なる。

支配の構成図


 つまり、『「無法者の陰謀」によってつくりあげ られた「既成事実」の累積が指導的統治者をして動か しようのない「客観的情勢Lのように思わせ、その 「屈服」の挙句、それらが「国策」にまで上昇して いった』というのが丸山の言う〈無責任の体系〉 の骨子である。

 そして、『「ゴロツキ」のところまで下降したはてに、 「非民主主義国の民衆が狂熱的な排外主義のとりこ」 となった「国民」の姿に行き当たり、丸山は〈敵〉を みうしなったというべきである』と北岡さんは丸山の 所論を批判している。

 前回までで北岡さんは、「軍部の戦争担当能力」 や「統帥権」を根拠とする「軍部犯人説」に対して 「軍部を戦争意志の推進部として捉えるべきなにも のも、軍部自体がもっていなかったこと」を明らか にしたうえで、「戦争意志」の「動力」として 「最も戦争に切実にかかわらなかったものたち」、 つまり高級事務官僚(軍事・行政官僚)を摘出して いた。ここではそれを丸山の〈無責任の体系〉に対 比して次のように述べている。

 戦前期日本の支配の核心は、〈政策的理念〉にも 〈理念的政策〉にも過去の行政の傾向性しか感じと れないにも拘らず、いいかえれば過去の行政の累積 によりてのみ成立した〈官僚意志〉に負ってのみ 〈政治的統合〉がなされ〈戦争意志〉の具体化が 可能となったてんにある。〈にも拘らず、支配 は貫徹した〉という訳である。

 上層部がロボット化していようが、「無法者の 陰謀」が「国策」にまで上昇していこうが、その ような無為、無策、無責任が横行していようが、 そんなことを歯牙にもかけぬように、官僚制の自然 累積的現在のみを表現する〈事務官僚〉によって、 〈戦争〉は動いていったのだ。〈理念〉や〈感性〉 において逸脱していないかれらによってはじめて 劣弱ではあっても〈戦争〉は動きえたともいえる。

 最終章「戦争意志 ― その動力としての〈地位〉」 は、「〈戦争意志〉が最終的には〈理念〉も個別的 な〈戦争意志〉ももたない〈事務官僚〉によっての み中枢的に担われていく過程」を検証している。 もし北岡さんの言うように、かれらが「戦前・戦中のみ ならず、敗戦後ですら無傷のまま延命」したとす るなら、 その恣意的な支配様式も今日の日本の政治過程に 根強く残っているだろう。その一つの実例として 、昨日の「今日の話題」で私(たち)は文部官僚の 理念を欠いた恣意的な施策の見本を知ったのだった。

 さて、第一次世界大戦の「総力戦」ショックに よって誘発された日本の軍事担当者の動きが二つ あった。

① 軍の近代的組織改編
② 戦争概念の転換に伴う軍事力の形成

このうちの①は、「人事刷新」というスローガンの もとに推し進められていった。今回からは、この 「人事刷新」に焦点を当てることになる。

 「人事刷新」の担い手たちが、当時の佐官級幕 僚とその候補者たちであり、かれらの努力と変転 の跡については「戦争意志とは何か(9) 戦争 担当能力の形成・組織改編」で年表風に概観して いる。そして、そのはしりが1921(大正10)年10 月のいわゆる「バーデン・バーデンの密約」であっ た点にもふれた。その後、その動きは「二葉会」 「一夕会」と発展して行くのだが、そこではどうい うメンバーがどういう討議を重ねていたのか。

1921(大正10)年10月
 岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎
 「バーデン・バーデンの密約」

(以下、岡村寧次の日記による。)

1923(大正12)年
 12月 5日 河本大作、板垣征四郎、永田で会合  12月13日 河本、永田、板垣、小畑
 岡村の支那行きの送別会を開く。

1927(昭和2)年
 1月16日 二葉亭で会合。
  永田、小畑、板垣、東条英樹、岡村、江副。
 6月27日二葉亭で。
  山岡重厚、河本、永田、小畑、東条、岡村。


1928(昭和3)年
 1月29日 小畑私邸。
  永田、小畑、岡村、黒木親慶。

 これらの会合での議題は明記されていないが、 主に情勢悪化する中国問題が話題になっていたと 思われる。

1928(昭和3)年6月  張作霖爆殺事件(河本事件)

 この事件を機に会の動きは急に活発となる。

 1月17日 木曜会、永田、岡村、東条。
  「政治と統帥」が議題。
 2月10日 二葉会、渋谷の神泉館で。
  在京者全部出席。河本事件につき討議す。
 3月22日 二葉会。
  爆破事件(河本事件)、人事につき相談。
 6月8日 二葉会、九名全員集会。
  河本事件につき話す。

 これらの会合のメンバーはすべて当時 の陸軍中央部の中核にあり、次代の陸軍を背負う 佐官級の人々である。8月になって二葉会が発展し て新たに結成された「一夕会」には

石原莞爾、鈴木貞一、山下奉文、土橋勇逸、武藤章

などが加わっている。

 『昭和史探索』より引用する。

 これら錚々たる中堅が、事件(河本事件)処罰を めぐって、上部を突きあげる。陸軍出身の田中 首相が、公表を避け行政処分で決着をつけようと いう白川陸相の案を、やむなく呑まざるを得なく なったのもむべなるかな、であろう。と考えてくれ ば、この事件はまた、陸軍が政治に関与する、介入 してくるモチーフを形造ったことに思い当たる。 犯人である同志を軍法会議にまわすことなく、 軽い行政処分ですますことができた。強力な同志的 な結合による力さえあれば、無法もとおるのである。 昭和という時代の歩みを怪しくする「軍の政治介入」 の端緒はここにあったといえる。

 「二葉会」はその第一回会議で次のような決議 をしている。

『人事の刷新とは会員を重要なポストに逐次就か しめ、自己の領域において上司をして会の意図す るところを実現せしむる如くに互に協力するとい うこと」

 彼らの動きは1931(昭和6)年(満州事変)あた りに最高潮となる。ではそれまでの間に、かれらは どうのようなポストを獲得していったか。次の表は 「一夕会」の主要メンバーの経歴である。

地位獲得



 また、次の表は佐官幕僚の担当する主要役職別の表 である。

役職別地位



 「二葉会」「一夕会」の主要メンバーは省部の 中枢ポストを獲得しており、一応所期の目的を達し ている。しかしここで、「このポストの獲得はかれ らの〈戦争意志〉にとっていったいなにごとであり えたろうか」と北岡さんは問うている。

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