2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
戦争意志とは何か(15)

満州事変


 満州事変の時代的背景やその時代状況に対する 軍部の焦燥の背景を『昭和史探索』によって概観 しておこう。

  中国の状況

 1930(昭和5)年11月、蒋介石の国民政府第四 次中央会議に、東北辺防軍司令官の張学良が出席 するなど、国内統一と国権回復の動きが明らかに なってきた。そしてそれにともなう反日・排日の 抗争もはげしくなる。

6月 中村寅太郎大尉殺害事件
7月 長春郊外での中国農民による朝鮮人農民への 襲撃事件(万宝山事件)

 各地で不祥事件や不法事件が頻発し、満州にお ける日本の諸権益はたえざる危機にさらされていた。

軍部

 昭和に入って以来、陸軍の俊英たちは満蒙問題 を語りつづけてきている。彼らがつねに口にする のは「十万の英霊、二十億の国帑(こくど)」で あり、「明治天皇のご遺業」である。日清・日露 の戦争に勝ちぬいて特殊権益としてわが手にした 満蒙の地は、彼らにとってそのまま国防の第一線 となり、失うことのできない日本の「生命線」と なった。ここを守りぬくことが陸軍軍人の使命で あり最大の任務となった。

 それなのにいま日本国内では、あいつぐ政党の 汚職事件や共産党の活動が活発化。さらには、ロ ンドン軍縮条約の締結は、当然の流れとして陸軍 軍縮をも予想させる。

 そのような危機感から、陸軍軍人はひとしく苛 立ちを隠さず政党政治に強く反発した。いまこそ 自分たちの手でこの危機的状況から国家を救いだ きなければならないと。三月事件、十月事件は その現れであった。

関東軍司令部

 日本の政策を代行する形の関東軍司令部の参謀 たちも焦燥していた。交渉相手の張学良が 「外交は国家の外交であるから大問題は当然中央 でやる。地方的な問題は自分がやる決心である」 と、むつかしい問題はすべて南京の国民政府のほ うへ回そうとし、その無責任さがいっそう参謀た ちを激怒させた。

 彼等は、張学良にかえてより親日的な 政権を樹立するか、さもなければ満州全土を軍事 占領してしまうか、という二者いずれかの結論に みちびかれていった。

 半藤さんは次のようにまとめている。

 そして昭和陸軍特有の、動機を重んじ手段の正 邪を問わない精神構造というものが、 これに加勢する。動機さえ純粋であれば(それも 往々にして主観的に)、手段と行動がかりに統帥 を乱し、暴力をともなうものであったとしても正 当化される、といった空気が陸軍の中枢に瀰漫し ていたのである。関東軍参謀石原莞爾中佐の 「満蒙問題私見」は、関東軍の作戦方針の基調と なったもので、

「解決ノ唯一方策ハ之ヲ我領土トナスニアリ」

の文字が、あまりにもあっさりと書かれているこ とに、ただ驚嘆するばかりである。

 ともあれ、満州事変への道はここに大きく切り 拓かれていった。

 次に満州事変の概略を『支配とは何か』を用いて まとめておく。

「我国情ハ殆ンド行詰り人口糧食ノ重要諸問 題皆解決ノ途ナキカ如シ 唯一ノ途ハ満蒙開発ノ 断行ニアルハ輿論ノ認ムル所ナリ……」 (1931年4月、「石原莞爾資料」より)

「然レ共国家ノ状況之レ(国の業務として満蒙併 合を行うこと)ヲ望ミ難キ場合ニモ 若シ軍部ニシ テ団結シ戦争計画ノ大綱ヲ樹テ得ルニ於テハ謀略 ニヨリ機会ヲ作成シ軍部主動トナリ国家ヲ強引ス ルコト必ズシモ困難ニアラズ」(1931年5月)

 これが石原の情勢判断であり策謀計画の原点で あった。軍部の戦争計画は依然として未完成であ ったが、石原は行動を起こした。

1931(昭和6)年9月18日
 石原は、奉天郊外の柳条溝付近で自ら護衛してい た満鉄線のレール爆破工作を実行した。同時に石 原と不離不即の関係にあった板垣大佐は独立守備 隊に命令を下し、北大営の中国軍兵営を攻撃させ、 次いで関東軍司令官の本庄繁中将を説き付けて、 中央部の許可なしに関東軍の出動と奉天前進を果たし、 更に満鉄付属地外の吉林への出兵をもなしとげて しまう。

 この満州事変に対する北岡さんの論評は次の通りで ある。

 石原の策謀は、まんまと成功した。以後、満州 国建国までの過程は、石原の個別的な「広汎な武 力的計画」にのっとったものであったが、この破 綻は、たちまちにして表われてきた。それは、石 原が満州を人事移動で転出してすぐに表われてく るのだが、それは、石原の〈計画〉が人工的であっ たというてんに全因をもつものであった。

 端的に いえば、石原は、彼の〈計画〉を実現させる過程 的組織力をもっていないことに、それは集中的に 表現されている。当然といえば当然なことだが、 軍がすでに〈官僚意志〉を組織性としてもってい るというてんから、石原の〈計画〉がはずれて 位置していたことをそのことは示している。 すなわち、それは、石原の個別的な〈戦争意志〉 が軍の官僚構造の共同的表現という派出性をもっ ていないということを意味している。

 石原は、このことに無自覚ではなかったと思え る。石原は、なぜ〈満州〉であったのかを説明し ている。

「我国ノ現状ハ戦争ニ当リ挙国一致ヲ望ミ難キ ヲ憂慮セシムルニ十分ナリ 為二先ヅ国内ノ改造 ヲ第一トスルハ一見極メテ合理的ナルガ如キモ所 謂内部改造亦挙国一致之ヲ行フコト至難ニシテ政 治的安定ハ相当年月ヲ要スル恐尠カラズ」

 三月事件・十月事件計画者と石原を分けたも のは〈絶望〉の自覚と無自覚であったといっても よいぐらいである。石原が中央から排除される直接の原因となった 中日戦争の方針をめぐって、石原がもろくも敗れ 去った理由は、ここにもある。

 これが「武力的計画」の内実であった。石原で すらこうであった限り、他に、「武力的計画」 など「狭小」であろうと、ありえなかった。

 そして、『戦争担当能力の担い手であるという ことがそれ以上のことも以下のことも意味しなか ったと断定するべきである。それだけで、軍部を もって〈戦争意志〉のモーターとして考える』 のは間違いだと結論している。

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