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戦争意志とは何か(12)

戦争意志―その理念的契機(1)


 昭和の15年戦争を〈戦争意志〉の〈理念性〉とい う面から見たとき、『そこでは〈理念〉は、いまに も決壊しようとする堤防の裂け目を、わずかの布切 れで、しかも及び腰で防ぐに等しい位置をしか獲得 していない』と北岡さんは言う。

 実際に、大日本帝国の軍人や理論的指導者は 〈戦争〉をどのように捉えていたのか。その一例と して、北岡さんは岡部直三郎大将(陸軍大学校長) の言葉を引いて論じている。

『戦争の惨禍は絶大であり、殊に総力戦的傾向を 帯びつつある近代戦にあっては、其勝敗が国家の 興亡を結果することに考え及ぼすならば、濫りに 兵を動かすの不可なると共に、苟しくも開戦に決 意するの巳むを得ざる場合には、平時における遺 憾なき準備施策と相まって戦争目的を完遂する如く 全力を傾注して戦争が実行せられねばならぬ。』

『之が為には、戦争の開始及び其集結を最も有利 なる環境と条件との下に発動することに努むると 共に、戦争中に於ては武力戦が勝利に到達しうる 如く、一切の施策が講ぜられねばならぬ。此の行 為が所謂戦争指導であり、それは政戦と戦略との 適切なる運用、特に両者の緊密なる連繋協力によっ て遺憾なきを得るのである。』

 岡部が陸軍大学校長先生であり、この文が書かれ た時期が、敗色がはっきりしはじめた昭和18年であ るということを考慮に入れなければ、はしにもぼう にもかからぬ文章としかいえない。しかし、この 〈当為〉と〈願望〉の個処を除いたら、何ひとつ残 らない文は、逆に政戦の不一致、戦争指導の不在を こそ鮮やかに指し示していたとも読みとれる。そう だからこそ、〈当為〉にみちみちていたのだと。

岡部のこの文章のもうひとつの特徴は、彼の 〈戦争意志〉にその〈理念〉を内包していない と いうてんにある。

 こうした中にあって、〈戦争意志〉を内在的な理 念的契機として捉えようとしたのは、石原莞爾ただ 一人であったと、北岡さんは言う。石原が持ってい た戦争意志とはどんなものだったか。

『……戦争ハ人類ノ為メ最モ悲惨ナル最モ悲シム べク、憎ムべキモノナルコト勿論ナリ、然レドモ 戦争ハ極メテ真面目ナルコトハ断ジテ否定スべカ ラズ……憐ムべキ不完全ナル人類ハ文明ヲ破壊シ ツツモ而モ新文明ノ母タリシナリ……』

 石原や先の岡部に限ったことではないが、まった く恣意的な、任意な見解しか、わたしたちはみるこ とができない。戦争が悲惨であるとか、戦争が文明 の母であるとかという見解は、かれらがそう考えた がっているということしか指し示していない。

 石原は、更に日米戦争を世界戦争トーナメント 戦において勝ち進んできた全勝同士の、すなわち 西洋文化ブロックのチャンピオンである米国と、 東洋文化ブロックのチャンピオンである日本との 王座を賭けた世界最終戦を予想し、

『……将来ノ世界戦二於テ、我勝タザルべカラザ ルハ単二自己ノ利益生存等ノ問題二非ズシテ正シ ク世界人類ヲ救済スべキ偉大ナル天職ノ為メナリ』

と御託宣を下している。

 世界最終戦のリングにのぼらんとする日本につ いて、石原は次のように評価している。

『……而シテ、此ノ戦争二臨ム我日本ノ物質 カハ遺憾ナガラ頗ル貧弱ナリ……』

と。また世界第一次大戦を総括して、将来戦を セン滅戦と予想し

『……其ノ核心ヲナスべキ戦闘ハ恐ラク個人ヲ単 位トスル立体的活動即チ飛行機二依リ行ハルルニ 至ルべキカ』

としその

『攻撃セラルル目標ハ老若男女山川草木ヲ問ハ ヌ全国民全国家トナルベク其ノ国民戦争ト云フベ シ』

と〈国家総力戦〉を明示している。事態はこの限 りにおいて、石原の予想を的中させた。

 石原莞爾は実は平和主義者だったという論者も あるようだが、私は石原莞爾についてはほとんど 何も知らない。その〈理念〉の帰趨を少し丁寧に たどってみよう。

 1935(昭和10)年8月12日、「相沢事件」と呼ばれている 流血事件が起こった。社会ファシズム的傾向をも った省部幕僚(統制派) のリーダーと目されていた永田鉄山軍務局長が、 農本ファシズム的グループ(皇道派)の青年将校 ・相沢三郎中佐によって白昼軍務局長室で執務中 軍刀で斬殺された事件である。この事件は、陸軍 部内のイデオロギー・人事抗争のすさまじさと、 その混迷ぶりを象徴していた。翌年の2・26事件を 予告するような事件だった。

 永田鉄山が斬殺されたその日に、石原莞爾は 参謀本部作戦課長としてはじめて軍中枢入りを 果たしている。中枢入りした石原は、国 防-国家総力戦体制の余りな脆弱さをまのあたり にして「驚愕シ」、次のように書きとめている。

 昭和十年八月参謀本部作戦課長二任命セラレシ 石原ハ着任後、北満二於ケル日蘇両国兵備ノ差甚 大ナルヲ知リ(註、昭和十年末において、全兵力 比は極東ソ軍:在満日本軍=10:3、航空兵カ比は 10:2)、速カニ内地ニアル相当兵力ヲ北満二移駐 シテ蘇連トノ兵力均衡ヲ獲得スルト共二軍隊ノ機 械化、特二航空兵力ノ増強ヲ眼目トスル兵備充実 ヲ企画シ上官ノ賛同ヲ得タリ、

 然ルニ民間ニモ、政府ニモ日本経済力ノ綜合判断 ニ関スル調査ナキヲ知リテ驚愕シ、種々ノ考慮ノ結 果、満鉄会社ノ諒解ヲ得、昭和十年秋同社経済調査 会東京駐在員タリシ宮崎正義ニ依頼シテ日満財政経 済研究会ヲ創立セリ、当時全ク私的機関ナリ
 この「私的機関」は後に「宮崎機関」と呼ばれる ようになる。この研究会の〈私性〉こそ、理念とし ての〈戦争意志〉の〈党派化〉を示すものにほかな らない。

1936(昭和11)年の夏、宮崎機関は

「兵備充実ノ基礎タルベキ生産力拡充計画第一案」

を作成する。それは日満における軍需産業のみなら ず基幹産業を含めた国家総力戦完遂のための再編強 化策であり戦時経済-国家統制から戦争指導をも 包摂する壮大なものであった。そして、その計画 完遂のための基軸として

「案ノ基礎条件トシテ少クモ十年間ノ平和ヲ必要 ト認メタリ」

という〈十年不戦〉を明示していた。

一方、陸軍省も手を拱いていたわけではなく、 日満を一体とする生産拡充方策に関する調査研究を 進めていた。宮崎機関第一案が提出される約半年前 の1935(昭和10)年7月、整備局課員となった沢木 砲兵少佐を戦備課総動員班長に任じ、のち「重要 産業五年計画陸軍省案」となる草案作成に着手さ せていた。しかしそれは宮崎機関案に及ぶべくもな いものだったとともに、「国家意志」というより 「陸軍省の党派的官僚意志」という意味合いの ものだった。(続く)

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