2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
戦争意志とは何か(9)

戦争担当能力の形成・組織改編


(以下は『支配とは何か』からの要約です。)

 東条が「清水の舞台から、目をつぶって飛び降り る」決断をした背景には、日本の戦争担当能力に対 する自己認識があったはずだ。今まで見てきたよう に、日本の戦争指導者たちは日米の国力・戦力の 歴然とした差異にもかかわらず、短期戦なら勝機が あると認識していた。短期戦を支える能力しか形成 できなかったとしても、そこに至るまでには長い努 力と蓄積の歴史があった。

 第一次世界大戦以後、どの国もが〈国家総力戦〉 を軍事問題の最大課題とせざるを得なくなっていた。 この〈国家総力戦〉というこれまでの戦争概念を 全的に転換させる問題は、とりわけ陸軍省・参謀 本部の幕僚たちに、深刻な影響を与えた。それは 次の二つの動きとなって現れた。

① 軍の近代的組織改編
② 戦争概念の転換に伴う軍事力の形成

① 軍の近代的組織改編
 これはとりもなおさず、人事の問題として浮上 してきた。

 西南戦争以後、陸軍部内の長州閥に対する不満は 大きな底流をなしていた。それが具体的な動きと なった端緒がいわゆる「バーデン・バーデンの密 約」である。

 この「密約」は、1921(大正10)年10月、16期 三羽烏といわれた、岡村寧次(のち参謀本 部第二部長)、永田鉄山(のち軍務局長)、小畑 敏四郎(のち参謀本部第三部長)の三人により 交わされたのもである。「派閥の解消、人事刷新、 軍制改革、総動員態勢」を骨子とする。

 その後、陸大出の中堅エリートを中心として 「人事刷新」をスローガンに結集しはじめ、 「一夕会」「二葉会」といった省部佐官級の社会 ファシズム的結合組織をうみだしていった。 16期三羽烏は「陸軍の人事を刷新して、諸政策を強 く進めること」という「一夕会」の第一回の会合の 決議を実現すべく、陸軍部内を漸次制覇していき 「国家総力戦体制」を準備していった。

 この組織的改編の長期にわたる努力・変転の跡を概 観すると次のようである。

1917(大正6)年
8月 参謀本部員小磯国昭少佐 「帝国国防資源」執筆
9月 陸軍省臨時軍事調査委員会 設置
9月 参謀本部「全国動員計画必 要ノ議」

1918(大正7)年
4月 軍需工業動員法公布
6月 軍需局官制公布
6月 軍需評議会設置
6月 陸軍省兵器局工政課新設

1919(大正8)年
11月 工政課「大正九年度陸軍軍需工業動員計画要 領」訓令
(以降、こうした訓令は1920~1923、1926~1936と続けて 出されていく。)

1925(大正14)年
4月 国家総動員機関設置準備委員会

1926(大正15)年
9月 陸軍省整備局新設

1927(昭和2)年
5月 資源局官制公布
11月 作戦資材整備永年計画策定要綱

1928(昭和3)年
11月 「作戦資材整備要領」

1929(昭和4)年
5月 「作戦資材各期整備大綱」

1931(昭和6)年
2月 宇垣陸軍大臣「陸軍軍需品生産能力調査ニ 関スル件達」

〈満州事変勃発〉

1932(昭和7)年
7月 「応急総動員計画設定要領」

1933(昭和8)年
5月 「陸軍軍需動員計画令」

1934(昭和9)年
3月 「石油事業法」(許可制、貯油の義務化)
9月 陸軍省新聞班「国防の本義と其の強化の提唱」

1935(昭和10)年
5月 内聞調査局設置

1936(昭和11)年
12月 「陸軍省軍備充実計画大綱」

1937(昭和12)年
5月 内閣調査局を改組拡充し企画庁を設置
5月 「重要産業五年計画要綱」
6月 「軍需品製造五年計画要綱」(五年不戦の 基調)
10月 資源局・企画庁統合され企画院へ

1938(昭和13)年
4月 「国家総動員法」公布

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