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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
戦争意志とは何か(5)

1941年の第二回御前会議


 戦前・戦中の日本では、重要な国策はすべて 天皇臨席の御前会議によって決定された。

 しかし、実質的な討議は大本営陸海軍部と政府 との連絡会議で行われている。そこでの意見の集約 (成案)を天皇に報告する。天皇はあらかじめ その内容を知悉している。そのようにすべての お膳立てができてから御前会議がひらかれる。

 御前会議は、中国への全面的な侵略戦争から太 平洋戦争開戦にいたるまでに8回ひらかれている。

第一回 1938年 1月11日 南京攻略後
    近衛声明「国民政府を相手にせず」

第二回 1938年11月30日 漢口攻略後
    近衛声明「東亜新秩序建設」

 いずれも日中戦争にたいする基本方針をきめた もので、重要な会議だった。

第三回 1940年 9月16日
    日独伊三国同盟の締結を決定

第四回 1940年11月13日
    「日華基本条約案」と「支那事変処理要 綱」を決定

 ここで日中戦争の戦略方針は持久戦へと変更された。

 すべてが太平洋戦争への道へとつながる重要な 決定が行われている。大日本帝国の政治コースは つねに御前会議で決せられたことになる。 この会議が最高の機関であり、きめられたことは 不変であり、至高の命令となった。

 そして、より直接に太平洋戦争へと直進するこ とを決めていったのが、1941年にもたれた都合四 回の御前会議であった。その第一回7月2日の御前 会議については前回取り上げた。

7月 2日 第一回御前会議
     「帝国国策要綱」。南進決定、 「米英戦を辞さず」

9月 6日 第二回御前会議
     「帝国国策遂行方針」。戦争準備、 外交交渉を併行。


 この1941年の第二回御前会議の模様を『昭和史探索』 から引用する。かなり長いが、御前会議は天皇の戦 争責任問題を考える上での重要な要素なので詳しく引用し たい。(構成を時間列に変えたり、中略したり している。)


 昭和16年の暑い夏は、空しく過ぎていった。

 その間に近衛首相がしたことは、対ソ攻撃の強硬 論者であった松岡外相を、内閣総辞職によって追 い出し、第三次内閣を組織したことだけである。 だが、新内閣に対する天皇の期待はなお大きなも のがあった。首相みずからがトップ会談で和平の 道を切り開こぅとしている。木戸も大いに期待し ていた。臥薪嘗胆を説いたとき、近衛はたいへんに 興味を示して耳を傾けていたからである。

 この日(9月5日)、近衛が強調していた日米首脳 会談による難局打開に対する、アメリカからの回答 がとどいている。それは首脳会議を開く前に予備会 議をひらく必要をのべ、首脳会談をやわらかく否定 し、どんな会談をもつにせよ、アメリカの基本的な 立場は、日本の中国からの撤兵と三国同盟の廃棄に ある、と主張してきたものであった。もちろん、 中国からの撤兵も三国同盟廃棄も、日本の陸海軍の みとめるところではない。

 9月5日午後4時半ごろ、連絡会議で意見一致した 御前会議の議案をもって参内の近衛首相の手ににぎ られていたのは、思いもかけぬ内容のものであった。

一、米英に対し戦争準備をする。
二、これと併行して日米交渉を進める。
三、十月上旬になっても日米交渉成立の〈目途な き場合は〉英米に対し戦争を辞せざる決意をする。

 臥薪嘗胆はおろか、国策の第一に戦争の準備が あげられている。しかも御前会議は明日だという。 木戸は驚いて、近衛を難詰した。

「とつぜんに、こんな重大案件をもってこられて は、陛下にお考えになる暇もなく、お困りになる 外はないではないか」

 近衛が手にしてきた決議案をみせられて、天皇は いった。

「これをみると、一に戦争準備を記し、二に外交 交渉をかかげている。何だか戦争が主で外交が従 であるかのごとき感じをうける」

 近衛は答える。

「ー、二の順序はかならずしも軽重を示すものでは ありません。政府としては、あくまで外交交渉を 行ない。交渉がどうしてもまとまらぬ場合に、戦 争準備にとりかかるという趣旨であります」

 天皇はこの答弁で納得しなかった。このあと、 急遽、杉山(陸)、永野(海)の両総長が宮中に よびだされる。近衛が宮中についたのが4時半こ ろ、両総長がよびだされて天皇に会ったのが6時、 あわただしい日本の動きであった。

 天皇と両総長との質疑応答も、近衛手記にある。 あまりにも有名なくだりであり、少し長くもある が、重要なので、わかりやすく書き改めて引用す る。

天皇
 日米に事おこらば、陸軍としてはどれくらいの 期間にて片付ける確信があるか。

杉山
 南洋方面だけは三ヵ月で片付けるつもりであり ます。

天皇
 杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき 陸相として「事変は一ヵ月くらいにて片付く」と 申したように記憶している。しかし四ヵ年の長きに わたり、まだ片付かないではないか。

杉山
 支那は奥地が開けており、予定どおり作戦がうま くゆかなかったのであります。

天皇
 支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広 いではないか。いかなる確信あって三ヵ月と申す のか。

 杉山はすっかり弱ってしまい、ただ頭をたれた きりで答えることもできなかった。みかねた永野 がそばから助け船をだした。

永野
 統帥部として大局より申し上げます。今日の日 米関係を病人にたとえれば、手術をするかしない かの瀬戸際にきております。手術をしないで、こ のままにしておけば、だんだんに衰弱してしまう おそれがあります。手術をすれば、非常な危険が あるが、助かる望みもないではない。……統帥部 としては、あくまで外交交渉の成立を希望します が、不成立の場合は、思いきって手術をしなけれ ばならんと存じます……

 永野は、7月29日に、開戦となった場合「日本海 海戦のような大勝はもちろん、勝ち得るや否やもお ぼつかない」と、天皇に明言していた。それがいま は大手術を説くのである。

 もっとも、当の永野にいわせると、必ずしも近衛 手記のようにいったわけではないらしい。宮中から 戻ってきた永野は、部下の幹部に〝こうお答えした″ と語っている。

「杉山の申しますことは、必ず三ヵ月にて片付くと か、必ず勝利を得るという確定的なことを申し上げ るのではなく、そのような算が多いことを申してい るのだと存じます。クラウゼヴィッツも戦争に必ず 勝つと予言するのはまちがいで、勝算が多い少ない ということがいえるだけであって、実際の勝敗は やってみなければわからないといっています。 杉山は、その勝算をいっているのでありましょう と申し上げ、ようやく御気色もやわらいで御前を 引き下がるをえた……」

 それはともかく、二人の統帥部の長の不満足な、 矛盾した説明に対して、天皇は「御気色をやわら いで」はならなかった。そんなあやふやなことで、 国家の運命を賭けることはできないのである。

 そこで天皇は訊ねた。

「それでは重ねてきくが、統帥部は今日のところは 外交に重点をおくつもりだと解するが、それに相違 ないか」

 両総長はケロリとして答えた。

「そのとおりであります」

 この段階にまできての、外交による日米間の妥結 など、およそ二人とも信じてはいなかった。もちろ ん戦争はソロバンだけではじくのではない。が、 勝算のとぼしい戦争に眼をつぶってとびこもうとい うのである。

 6兆550億円の戦費を投じ、19万人が戦死、95万人 が傷つき、あるいは痛み、しかもなお75万人が戦場 である中国大陸にあった昭和16年に、さらに大戦争 に突入することの正否をば、勝算よりもさきに論 ずべきではなかったか。

 機会は去っていった。歩みはじめた道を振り出 しに戻す、ただ一度のチャンスは、こうしてはる かに遠のいていった。 君臨非統治の西園寺方式を このときに破る、天皇の一言が必要であった。 軍は、不意の両総長の宮中召集に、ガク然、色を 失っていたときだからである。

 その日の「大本営機密日誌」は書いている。

「……南方戦争に関し種々御下問二時間にわたり、 両総長は退下した。一時は参謀本部内の空気は サッと緊張したが、御前会議は、両総長の奉答 により御嘉納あったようで、一同安堵した」

 翌9月6日の御前会議は、皇居の千種(ちぐさ) の間で、すじ書きどおりに「戦争を辞せざる決意 の下に」外交交渉をおこない、「十月上旬頃に至る も尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、 直に対米(英蘭)開戦を決意す」という国策をき めた。10月上旬までは、9月6日から一ヵ月しかな い。

 この決定は、日本軍部が日本政府に送った最後 通牒といってもいい。しかも錦の御旗のサイン入 りである。これまで五ヵ月もかかってまとまらな かった日米交渉を、あと一ヵ月でまとめるという ことに、だれが確信があったのか。十中の八、九 は戦争であるとし、陸軍も海軍も、天下晴れて戦 争準備に精をだした。銃剣の音を高鳴らせても文 句をいうものがいない。
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