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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
戦争意志とは何か(4)

南部仏印進駐というターニングポイント


 「日独伊三国同盟」が1940年におけるターニング ポイントであったが、1941年でのそれは「南部仏印 進駐」であった。そこに至るまでの経緯をたどって みる。

4月13日 日ソ中立条約成立
4月18日 ハル米国務長官、野村吉三郎駐米 大使に日米諒解案を提議


 1941年初めには和平を目指した日米交渉が進めら れていた。メンバーは、日本側からは野村大使 ・井川忠雄(近衛の側近)・若林要公使・岩畦豪雄 大佐(いわくろひでお、軍務課長)の四人、アメリ カ側はハル国務長官・バレンタイン・ウ オルッシュ牧師・ドラウト牧師の四人。「日米諒解 案」をめぐる経緯を半藤さんは次のようにまとめて いる。

 彼ら(アメリカ側代表)は険悪となった日米関係 を改善すべく〝打開策″を日本側に提出した。これ を土台にして軍務課長君畦豪雄大佐および近衛の側 近の井川忠雄と、両神父とが協議を重ね、非公式な がらも「日米諒解案」の文書が16年4月にまとめあ げられた。この案の趣旨に政府も陸海軍部も同意し、 さっそく政府の訓令がワシントンへ飛んだ。

 これを受けて正確には4月16日(松岡外相はまだ帰 国していない)、野村と米国務長官コーデル・ハル との間で、まさに正式の日米交渉がはじまった。 日米交渉は前途に光明を見出そうとしたのである。

 ハルは、まず話し合いの土台として、
「すべての国の領土と主権の尊重、内政不干渉、 すべての国の平等の原則の尊重、太平洋の現状維持」のいわゆる〝ハル四原則″
を日本側に示した。

 対して野村は、東京から送られてきた「日米諒解 案」を提示する。それは、

①日独伊三国同盟は攻撃的ではなく、防衛的なもの であると日本が宣言する。
②日中間の協定によって、日本軍が中国から撤兵す る。
③中国に賠償を求めない。
④蒋介石・汪兆銘両政権の合流を助ける。
⑤中国は満州国を認める。

以上の条件を日本が認める。そしてアメリカはそれ をもとにして中国国民政府との平和の斡旋をする。 日米間の友好通商条約を正常にもどす、というも のであった。

 野村はハルをはじめアメリカ政府筋が日本案に 賛成であるとの感触をえて、「日米諒解案」でこ のまま交渉をすすめたい旨の電報を、東京に打っ た。たしかに、交渉はこのままスムースに進行し ていくかに思われた。

 ところが、優柔不断の近衛首相は外遊中の松岡 外相の帰国を待って、この諒解案をより正式なも のにしようと余計なことを考えた。そこに大きな 錯誤があったのである。

 4月22日、日ソ中立条約締結の素晴らしい土産を もって帰国した松岡は、日本のこれからの外交は俺 にまかせろと、まさに意気天を衝く勢いである。 日米のわけのわからぬシロウト連中のまとめた 「日米諒解案」など一瞥だにしない。「この案は 陸軍の陰謀である。交渉は俺にまかせろ」と真っ向 から反対を表明、大幅に修正してワシントンに送り つける。

 野村からハルに、松岡修正案が手渡されたのは 5月12日で、それから20日後の31日、こんどはアメ リカ側の第一次修正案、さらに20日たって6月21日 に第二次修正案が示される。もう原型をとどめないほ どずたずたである。

 一説にアメリカ政府はこの案をはじめから本気で 認めてはいなかったともいわれているが、いずれに せよ、松岡の横車で「日米諒解案」はあっという 間に水に流され、はじまったばかりの交渉は白紙に 戻り、日本は好機を虚しく失ってしまったのである。

 日米交渉はこのあと雲を掴むような話し合いとな る。いや、アメリカ政府の日本および日本人にたい する不信はつのり、事態は完全に悪化した。グルー は四原則に固執し、野村は日本のおかれた窮状を 述べる。これでは交渉が一歩も進まないのは自明の 理である。とうてい纏まるはずはないと、だれの 目にも明瞭きわまるものであった。何を目的に話 し合っているのかわからなくなったのであるから。

 続いて情勢は次のような経緯をたどる。

6月22日 ドイツ、ソ連に対し宣戦布告
7月 2日 第一回御前会議、「帝国国策要綱」決定
   南進決定、「米英戦を辞さず」
7月18日 第二次近衛内閣総辞職
7月19日外相松岡洋右を豊田貞次郎と交代させ 第三次近衛内閣成立
7月25日 米英、在米英日本資産を凍結
7月28日 日本軍、南部仏印進駐
8月 1日 米、対日石油輸出全面禁止

 この経緯の詳細を、再び半藤さんの文章で 補足しよう。

 そこへ全世界を震撼した大事件が勃発する。 アメリカの第二次修正案の示された翌日、 6月22日、ドイツ軍がソビエトへの侵攻を開始した のである。

 このことがずっと燻っていた軍部の南進論に火 をつけた。これで北方ソ連からの脅威はなくなっ た。それに世界の視線が独ソ戦争にむけられてい る。このチャンスを捉え、敢然として東南アジア に進出し、そこの資源、なかんずく石油を獲得せ ねばならない。ことに石油に飢えている海軍は、 4月上旬に陸海軍合意で決定している南進政策の 実行を強く陸軍にせまった。

 ワシントンの野村からは「南方に武力を行使す れば、日米交渉は妥結の余地なく、米英との衝突 を招く」と意見具申がとどいているが、それに構っ てはいられないとの切迫した想いが先走っている。 こうして7月2日、一方でドイツに呼応しての対ソ 戦を準備しつつ、その一方で、対米戦争を覚悟し 南部仏印進駐を強行する政策が、御前会議で決定 される。

 そして軍部のいうままになりつつある近衛は、 「南より北、三国同盟に基づいて対ソ戦争に参加 が先だ」と吼えつづける松岡外相が目ざわりとな り、これを追い出すために、いったん内閣総辞職 する。そして豊田貞次郎海軍大将を外相にむかえ、 第三次内閣を組閣したのが7月19日。この新しい 体制によって、日本はいよいよ南部仏印進駐の国 策遂行を決意する。

 日本の外交電報の暗号解読に成功していたアメ リカ政府は、この日本政府の決定を知ると、 7月25日、在米日本資産の凍結を公布し、日本の 侵略政策にたいする牽制的な報復手段に出た。

 それに怯まず日本は予定どおりに、7月28日、 いざという場合の南方作戦の前線基地にすべく 南部仏印に進駐を開始する。近衛や軍部の首脳 の一部は、平和的に進駐するだけならば日米関 係を最悪に導かないであろうと楽観していた。

 しかし、待っていたとばかりにアメリカは、 8月1日、対日石油輸出の全面禁止という戦争政策 で応酬してきた。この時点で、アメリカが対日戦 争の決意を固めたのである。

 予想だにしなかった海軍省軍務局長の岡敬純 少将は

「しまった。まさかそこまでアメリカがしてくる とは思わなかった。しかし、石油をとめられたら 戦争あるのみだ」

と悔いたが、すべては手遅れなのである。こうし て東京の中央部は日米開戦前夜といえる雰囲気に 包まれたという。

 あとは一潟千里(いっしゃせんり)である。 9月6日と11月5日の二回の御前会議をへて、 対米英開戦決定……さらには、近衛文麿の内閣投 げ出しによる、対米開戦論者のリーダー東条英機 の登場となる……

 とにかく、日本の指導者はまともな考え、つま り健全な常識を失って、熱病にうかされたように 亡国が決定的な戦争に突入していくことになるの である。ただ一つ、ドイツの勝利をあてにして、 である。
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