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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
戦争意志とは何か(3)

日独伊三国同盟というターニングポイント


 1931年9月18日 の柳条湖事件から始まった中国への 侵略戦争(日中戦争)は、 1937年7月7日 の盧溝橋事件で全面的に拡大した。

 南京陥落(1937年12月)、武漢占領(1938年10月) と、日本全国が勝利に酔いしれていたが、中国の対 日抗戦は日に日に強硬となるのに反して、日本の 軍事動員力は限界に達し持久戦を余儀なくされてい った。

 軍事物資の無理な調達は当然に国民にしわ寄せさ れる。国内の生活物資さえ窮乏の一途をたどってい た。

1939年 4月12日 米穀が配給統制品となる
1940年 9月18日 賃金統制・価格統制
1940年10月 1日 石油が配給統制品となる
1940年11月25日 白米禁止
1940年12月25日 木炭が配給統制品となる

 戦後、アメリカ合衆国戦略爆撃調査団は 「日本戦争経済の崩壊」の中で

『日本が合衆国との戦争を決意したのはそもそも 正気の沙汰であったのか』

と大きな驚きを表明している。

 では、日本の戦争指導者たちは、勝者から 「正気の沙汰でない」と言われるほどに絶望的な 自国の戦争遂行能力に無知だったのだろうか。 そんなことはない。

1940年9月27日 日独伊三国軍事同盟成立

 この外交上での日米関係険悪化を決定付けた 日独伊三国同盟に対する枢密院審査委員会が開催され ている。この三国同盟が日米開戦にいたる露払いとな る可能性を委員たちは感じとっていたのか、 委員会では対米開戦を想定したときの 日本の石油事情について質疑がかわされていた。

 石油の欠乏について、河合枢密院顧問官、有馬 同顧問官が陸海軍大臣にそれぞれ質問したがはっき りした返事を得られず、南顧問官が更に重ねて同 じ質問を繰り返した。

南顧問官
 物資殊に石油の関係について更に心を安んずるに 足る説明を得たし

星野企画院総裁
 石油は相当量の貯蔵あるも最悪の事態長期にわ たるとき困難をまぬかれず

東条陸軍大臣
 石油は陸軍として若干期間の作戦遂行には充分な るも三年四年と継続したるときは自信を有しえず。 死中活を求め、解決を図るのほか方法なし

及川海軍大臣
 …‥(戦争が)長期にわたる場合は自然戦闘の 回数は減少するによりくりのべ使用せんとす

 このやり取りについて北岡さんは次のように述 べている。

 いうことや、考えることのなくなったときにし かでてこないようなコトバが横行している。これ で、アメリカをして、日本をうさんくさくさせた 三国同盟の締結審査の方も合格という次第であった から、かれらが開戦前一週間であっても同じような 調子で合議していたとしてもさして驚く必要もな い。案外、かれらは、なんということもなかった のかも知れない。

 また、日独伊三国同盟締結後の1940年10月14日の 日付で、山本五十六の次のような証言が記録されて いる。(岡田文夫『近衛文麿』より)

 自分の考えでは、アメリカと戦争するというこ とは、ほとんど全世界を相手にするつもりになら なければ駄目だ。要するにソヴェト不可侵条約を 結んでも、ソヴェトなどというものはあてになる もんじゃない。アメリカと戦争しているうちに、 その条約をまもって後から出てこないということ を、どうして誰が保証するか。

 結局自分はもうこうなった以上、最善をつくし て奮闘する。そうして長門の艦上で討死するだろう。 その間に、東京あたりは三度くらい丸焼けにされて、 非常にみじめな目に会うだろう。そうして結果に おいて近衛だのなんかが、気の毒だけれども、国 民から八つ裂きにされるようなことになりやあせん か。

 実に困ったことだけれども、もうこうなった以上 はやむをえない。

 国力の客観的な現状把握の努力も行われていた。 その年(1940年)の末に日本陸軍統帥部 は日本の国力の検討を陸軍省整備局に依頼し、 次のような結論を受けている。(林三郎『太平洋 戦争陸戦慨史』より)

(一)(昭和)十六年春季に米英と開戦する場合

 鉄鉱と軽金属は船舶の損害が著しくない限り、 後年の快復の望みがある。

 稀有金属と非鉄金属は他に取得の見込みがない から開戦三年目以降に著しく不足するであろう。

 そのころ液体燃料もまた同様の状態になるであろ う。

 他方、船舶の損害が大きい場合には石炭の輸送量 が減るから全産業を萎靡させる可能性が大きい。

(二)戦争を絶対に回避する場合

 もしも米英が対日経済関係を断絶すれば物的国 力は著滅して特に液体燃料の欠乏が致命的となろう。
 その時点までに既にアメリカは日本に対して 次のような牽制・規制をとってきている。

1939年7月 日米通商航海条約廃棄通告
1940年6月 特殊工作機械輸出制限
     7月 国防強化発進法を成立させ軍需物資 の輸出を許可制にし、更に石油・屑鉄にも許可制を とり、航空機用ガソリンの輸出を禁止す
     9月 屑鉄の禁輸
    10月 鉄・鉄鋼輸出許可制

 さらに1941年になると、いわゆるABCD包囲網が進展 し、仏印の対日米穀輸出が削減されたり、南方での ニッケル鉱・クローム鉱・屑鉄などの対日輸出が 禁止・制限されたりしている。

 この米英中蘭の強固な措置を受けて、陸軍省戦 備課は、1941年3月段階で、日本の物的国力の判断 結果を明らかにしている。次のような「判決」 を提示した。

 帝国はすみやかに対蘭印交渉を促進して、東亜 自給圏の確立に邁進すると共に、無益の英米刺激 を避け、最後まで米英ブロックの資源により、国 力を培養しつつあらゆる事態に即応しうる準備を 整えることが肝要である。

 しかし私たちが知っているのは、この「判決」 を無視した「無益の英米刺激」である。

1941年7月 日本軍、南部仏印進駐

 これがアメリカを硬化させた。アメリカの報復 は

7月 在米日本資産の凍結

 同月陸軍省統帥部は「11月1日対米英開戦」の想 定のもとでの国力の再検討を整備局に求めた。 整備局の回答は

『米英と妥協し得るにあらざる限り、経済封鎖的 状態の中に隠忍するも国家の衰頽を防止する手段 がない』

であり、開戦の途を暗示しながら、一方では、開 戦しても二年先の産業経済情勢に確信なしと、そ の出口のなさを明示した。

 日本の支配層は、日米両国間の経済的・軍事的 力量の絶対的ともいえる差を認識しつつも、開戦 やむなしという閉ざされた情況を打破できない位 置で立ち止ってしまった。

 この時、中堅幕僚たちの中で幅をきかせていた のは、次のような心情論であった。

『ジリ貧の国は永久に立ち直れぬが玉砕の国は立 ち上れる』

『日米戦争は負けるかも知れぬが戦わずして四等 国に堕するよりもいさぎよく戦って二千六百年の 歴史を飾るべきだ』

(以上は『海軍戦争検討会議記録』より)

 参謀本部第二十班が『機密戦争日誌』というのを 書き残している。次のような記述がある。

『沈思苦慮の日続く、一日の待機は一滴の油を消 費す。一日の待機は一滴の血を多からしむ』

 自国の国力に対する絶望的な認識のはて、 このような心情的な応酬だけが浮上してきただけ だったのである。

 1941年8月 東条内閣成立

 東条内閣成立時、『機密戦争日誌』次のように 書いている。

『いかなることあれども新内閣は開戦内閣ならざ るべからず。開戦、開戦、これ以外に陸軍の進む べき途はなし』

1941年8月 米、対日石油輸出全面禁止

 このアメリカの強硬措置が日本の支配層に甚大な 衝撃を与えた。この間の事情を、北岡さんは次のよ うに総括している。

 当時、企画院は石油保持量を三年と計算してい た。三年後には民軍需とも供給不能になるという ことである。

 陸軍省整備局はしかし、対支戦争と対米戦争が 並行すれば、陸海軍航空作戦のためには約一年、 海上決戦なら約半年しか戦えないという結論を出 していた。

 企画院総裁であった鈴木貞一がこのとき、

「現状を以て推移せんか帝国は遠からず痩身起つ 能わざるべし」

と述べ、戦後、物が足りないのになぜ戦争したのか という批難に応えて

「物が足りないからこそ戦争したのだ」

と反駁した事情は、この国力に対する認知に基づ いている。

 しかし、この国力に対する判断は〈政策〉に直 通してはいなかった。国力に対する判断は、この 事実認定を境にして右へ左へと分解している。 政府首脳・重臣たちが開戦にためらい、軍事担当 者たちが開戦に踏みきるべきだと主張したように。

 しかし、この違いに大した違いがあると考 えることはできない。右へ左へというのは、 このときの当事者たちに共有された心理の揺れを しか表わしていないが故にである。

 あらゆる議論 においてまとまりのつかないときは、声の大きい 方が有利を占めるという通説(!?)にいささか の真実があるなら、「戦争日誌」に見られるよう な怒声に似た焦りが、決心の決まらない政府文官 ・重臣たちを開戦の秤皿の方へ追いやった心理的 契機たりえたといえるのではないだろうか。決心 のつかない人間より決心のついた人間の方が強い のである。

 事実、石油全面禁輸は、それまで対米交渉をの らりくらりと延長させつつ、抜目なく南進政策を 実施し、かつ許容していた軍部や政府に、現状維 持を許さぬものとして立ち塞がったのである。す なわちそれは、アメリカ政府が日本政府をして中 国からの全面撤兵を受容するか否かの最後通牒と もいうべきものを代弁していた。
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