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「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」第一案の分析(6)終戦工作の実態

 東京新聞(8月30日付朝刊)が、外務省が新たに公 開した外交文書について特集を組んでいる。その中 でGHQでマッカーサーの軍事秘書を務めたフェラ ーズ准将が紹介されている。それによると、フェラ ーズは「昭和天皇が降伏を決意したのは原爆投下に 先立つ45年2月だった」、従って日本の 降伏を早めるために原爆を投下したというトルーマ ンの主張は「事実に反する」、つまり原爆投下は 不要だったと主張しているという。

 「昭和天皇が降伏を決意したのは…45年2月だった」 という主張は何を根拠にしているのか。この主張は 疑わしい。45年2月といえば、例の「近衛上奏文」が 提出されたときである。「敗戦は必至」であることは 充分に承知していたが、「降伏の決意」はしていない。

 「近衛上奏文」は「敗戦は必至」の立場から 「共産革命」防止の手段を講じた後、終戦にもって いくべきだと意見陳述をしている。これを読んで、 ヒロヒトは近衛と次のようなやり取りをしている。


天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、 軍部では米国は日本の国体変革までも考えている と観測しているようである。その点はどう思うか。」

近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く 表現しているもので、グルー次官らの本心は左に 非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任 の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、 言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意 と認識とをもっていると信じます。ただし米国は 世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、 将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、 戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な 点であります。」

(中略)

天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないとな かなか話は難しいと思う。」

近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思わ れますが、そういう時期がございましょうか。そ れも近い将来でなくてはならず、半年、一年先で は役に立たぬでございましょう。」

 これが1945年2月段階でのヒロヒトの認識である。 世界全体の戦局推移、連合国の枢軸国に対する無 条件降伏要求の方針、日本の戦争遂行能力の壊 滅状態などの事実を直視すれば、戦争の継続が無 駄な犠牲を積み重ねるばかりであることは誰の目 にも明らかではないか。しかし、ヒロヒトの視野 には「国体護持」の一事しか見えていない。その ための有利な条件をなお妄想していた。

 ところで「詔書」第一案には次の文言がある。

朕カ先ニ帝國政府ヲシテ 第三国ノ調停ヲ求メシメ タル所以ナルモ 不幸其容ルル所トナラス

 「第三国」とはソ連のことらしい。「第三国ノ調停 ヲ求メ」るようなことは秘密裏の工作だろうから、 もちろん国民の知るところではなかった。国民は 「詔書」で始めて知ることになる。しかしソ連に 調停を期待するとは、全く世界情勢を読めないぶざまさ を露呈しているとしか言えない。そのぶざまさを わざわざ国民の前に晒すのはまずい、と思ったから かどうかは知らないが、最終案ではこの文言は削除さ れる。

 しかし、実際にどのような終戦工作が行われてい たのかは知っておきたいと思う。それをここで取り 上げることにする。(以下、資料3による。)

 本土決戦が全国民を死のみちづれにすることが明 らかでありながら、戦争指導者たちは具体的な戦争 の終結への動きを示さなかった。それが始まるのは、 本土空襲が激化し、民心の離反が明らかになり、体 制存続の危機を感じとった時以後であった。

 戦争末期、この国の行く末を憂えて、吉田茂、有田八郎、 近衛文麿、高松宮、東久邁宮等々による終戦工作が あったという説があるが、それらの工作とは具体性 や実現性を欠いた密室の話し合いに過ぎなかった。危 険を犯して直接行動に出るようなことはなかった。 わずかに工作らしいものとして外国側との接触を行 ったものに「バッゲ工作」・「ダレス工作」と呼ばれ ている二例があっただけである。

「バッゲ工作」
 スエーデンの駐日公使バッゲが、3月小磯内閣の 重光外相から依頼をうけ、5月はじめ本国に帰って からスエーデン駐在の岡本公使と相談の上、アメリ カ公使と接触したとされている。しかし鈴木内閣に なってから5月18日東郷外相は、岡本公使に対して、

「前内閣当時に行われたことについては篤と調査し てみる必要があるから、本件は相当時日を要するも のと承知ありたい」

と暗に工作の打ち切りを命じた。

「ダレス工作」
 スイスに居た海軍武官藤村義朗中佐が、アメリカ の諜報機関の責任者アレン・ダレスに接触を求め、 和平交渉を進めるよう大本営および海軍省に20数本 の電報を送ったことをさしている。しかし6月20日 米内海相は、一件処理は外務大臣へ移したと返電し、 これも交渉の打ち切りを指示した。

「海軍省も軍令部も、そんなものは危険だ。第一言 って来ているのが中佐で、こんな大問題を中佐ぐら いに言ってくるのはおかしい、というわけで真剣に 取り上げる者はなかった」(豊田副武述『最後の帝 国海軍』)

 このように「バッゲ工作」も「ダレス工作」も 日本の戦争指導の中枢には遂に取り上げられるこ となく終った。とての「終戦工作」とは言えない。

 ではソ連への調停依頼はどうだったのか。

 「ソ連工作」も、最初は軍部の希望するソ連の 参戦阻止が目的であって、直接戦争終結を目的と したものではなかった。それが「終戦工作」を目 的としたのは6月中旬以後のことだった。

 前年1944年11月7日のロシア革命記念日の演説で、 スターリンが日本を侵略国と呼んでいる。45年2月 末頃からソ連の極東兵力の増強が行われている。 小磯内閣が総辞職した4月5日、ソ連は日ソ中立 条約の不延期を通告してきた。ソ連の対日参戦 はもうほとんど明らかだった。

 帰国の途次シベリア鉄道の兵力輸送を目撃した 駐ソ大使館付武官補佐浅井勇中佐から

「(シベリア鉄道による兵士、兵器の輸送は) 一日12~15列車におよび開戦前夜を思わしむる ものがあり、ソ連の対日参戦は今や不可避と判断 される。約20個師団の兵力輸送には約2ケ月を要 するであろう。」

との電報が参謀本部に到着していた。

 ソ連軍の兵力増強に対して、当時の関東軍はとても それに太刀打ちできない状態になっていた。 最精鋭とうたわれた関東軍の常設師団は、 44年中に南方、沖縄、本土防衛などに引きぬかれ て皆無だった。その穴うめとして新設師団を作 った。在留日本人を根こそぎ動員して、最終的に は24個師団となったが、その実態は兵の質も装備 も致命的に劣ったものだった。とくに飛行機、戦車、 対戦車砲などを殆ど失って、ソ連軍の攻撃に耐え るカを持たない状態であった。

 大本営は45年4月末から本格的な対ソ戦の検討 を始めた。関東軍の実力に期待できない以上、支 那派遣軍を満州に転用して中国戦線を放棄するか、 満州をも放棄して本土決戦に専念することさえ考え られたが、結局は関東軍は持久戦を選んだ。東南部 の山岳地帯に複郭陣地を作ってたてこもるという ことになった。いずれにせよソ連の参戦は、日 本の戦争遂行にとって最悪の事態をまねくという 認識では一致していたのである。

 ソ連参戦にたいして軍事的対抗手段をとりえない 以上、陸軍としてはソ連の参戦の防止が何よりも望 まれるところであった。こうした観点から、参謀 次長河辺中将は、就任早々の東郷外相にたいして、 4月22日ソ連にたいし外交的手段をとることを要請 した。鈴木内閣に入閣するにあたって、ひそかに 戦争終結を考えていたといわれている東郷外相は、 陸軍のこの要請に応じることによって何らかの和 平への糸口をつかもうとした。そして梅津参謀総 長にたいし、秘密保全のため最高戦争指導会議の構成員(鈴木首相、 東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、 及川軍令部総長の6人)のみの会議をひらくことを 提案し、軍部も同意して、5月2日からこの会議が開 かれた。なんらかの形で戦争の処理を問題にする会 合は、これがはじめてだったと言える。

 5月11、12、14の三日間にわたって開かれた最高 戦争指導会議構成員のみの会議は、主としてソ連 の利用度如何が論ぜられたのであって、日本の戦 力の現状や戦争終結の得失が論ぜられたのではなかった。 米内海相にいたっては、ソ連に軍艦を譲って石油 や飛行機をもらおうと主張したといわれている。 結局この会議はソ連の参戦防止に努めると共に、 さらにその上に

「進んではその好意的中立を獲得し、延いては戦争 の終結に関し我方に有利なる仲介を為さしむるを有 利とするをもって、これ等の目的をもって速に日蘇 両国間に話合を開始するものとす。」

との申合せを行うに止った。

 この会議の結果を受けて、東郷外相は広田元首相 を起用してソ連駐日マリク大使に接触させるととも に、佐藤駐ソ大使にソ連側との接触を訓電した。し かしその内容は漠然と日ソ友好について話しあおう というもので、ソ連側からは相手にされるはずもな かった。しかもこの接触が、戦争終結についていく らかでも関係のある日本政府の外交努力の唯一のも のであった。

 既に5月8日にドイツが降伏しており、ヤルタ会談 で決定しているソ連の対日参戦の期日(ドイツ降伏 後2~3カ月)がせまっていたこの時、ソ連を利用し ようというこの方針は、国際情勢についても日本の 国力についても余りにも見当違いの、ヒロヒトの頭 を占領していた「妄想」と同程度の「妄想」でしか なかった。

 以上が「朕カ帝國政府ヲシテ」求めしめた「第三 国ノ調停」の実態あった。

 無条件降伏以外には戦争終結の道のないことはす でにこの時期には客観的に明らかであり、戦争指導 者の決断の必要な時だったということができる。し かし政府中枢では、このような甘い判断と希望的な 観測が議論を主導しつづけ、ずるずると戦争を継続 していたのだった。

 この優柔不断の期間に、フィリ ピンや沖縄や南方の島々で、軍民合わせて数十万 の生命が失われ、本土の諸都市も無差別絨毯爆撃に さらされ、その死者は約三十万人、約一千万人が 家を失った。そして戦争遂行責任者たちは、ついに は広島・長崎への原爆投下まで手をこまねいていた。 これが天皇を頂点とする大日本帝国という無責任無能国家 の実態だった。
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