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第859回 2007/08/25(土)

「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」第一案の分析(1)開戦の大義名分

(2,3回で終わる予定でしたが、取り上げたい問題が 次々と浮かんできました。思いがけず長くなりそう。 「今日の話題」から独立連載に変更します。)

資料追加
岩波講座「日本歴史21」
 (1)由井正臣『太平洋戦争』
 (2)橋川文三『「大東亜共栄圏」の理念と実態』
 (3)藤原 彰『敗戦』


「米英重慶並ソヴィエート政府ニ對シ」
 中国政府ではなく「重慶政府」と言っている。一 体これは何か。1937年にまでさかのぼる。

1937年11月
 蒋介石率いる「国民政府」は重慶に遷都
1937年末
 日本軍の肝いりで、北京に王克敏の「中華民国 臨時政府」樹立
1938年1月
 近衛内閣は「爾後國民政府ヲ對手トセズ」と声明。
1938年3月
 南京に粱鴻志の「中華民国維新政府」をやはり 軍の肝いりで樹立。
1938年12月
 汪兆銘、重慶を脱出。(日本軍の工作による)
1940年3月
 汪兆銘は王克敏、粱鴻志と会談し南京政府を樹立 する。

 つまり、中国には重慶の「中華民国」政府と 日本の傀儡・南京政府と、二つの政府があった。 「詔書」第一案作成者たちは重慶の蒋介石政府を 「中国政府」と呼べないこだわりがあったのだろ う。第四案でようやく「重慶」という呼称は撤回 するが、「中(国)」ではなく「支(那)」と 呼んでいる。

「世界人類ノ和平ト 帝國臣民ノ康寧(こうねい)トヲ 冀求(ききゅう)スルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ」
 約2000万人の戦没者を出し、アジア中の人民に 塗炭の苦しみを強いていながら、その点には 一言も触れず、よく言うよ。その「遺範」とやら は一体どこにあるのか。あるなら示して欲しいも のだ。この他国人民に与えた甚大な被害に対する 責任意識の欠如は、とうとう最後まで省みられな い。

「米英二國ニ対スル宣戰ヲ敢テセル所以モ亦 實ニ 帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾(しょき)スルニ出 テ 他國主權ノ毀損ト領土ノ侵略トハ 固(もと) ヨリ朕カ素志ニアラス」
 中国への侵略戦争から米英との交戦にいたる過程 で、日本の国家権力の中枢で「帝國ノ自存ト東亞ノ 安定」という大義名分はどのように形成されていっ たのだろうか。資料(1)より引用する。


 1941年9月6日の御前会議は「帝国国策遂行要領」 を決定し、「対英米蘭戦争ヲ辞セサル決意ノ下二 概ネ10月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス」るとし た。

 それ以後、近衛内閣の総辞職、東条内閣の成立か ら「白紙還元」問題による「帝国国策遂行要領」再 検討を経て開戦決定にいたる間、政府・軍部の間で 戦争計画について大きな振幅と動揺がくりかえされ、 その基礎的問題について完全な一致がみられない点 もいくつかある。

 第一に戦争目的についてそれが見られる。独ソ戦 の開始にともない、対英米戦と対ソ戦の双方を準備 することをきめた1941年7月2日の「情勢ノ推移二伴 フ帝国国策要領」では、方針として「大東亜共栄圏 ヲ建設」することと「自存自衛ノ基礎ヲ確立スル為 南方進出ノ歩ヲ進メ」るという二つの目的が掲げら れた。

 ついで9月6日の「帝国国策遂行要領」では「自存 自衛ヲ完ウスル為対米(英蘭)戦争ヲ辞セサル決意」 をうたい、戦争を決意した11月5日の「帝国国策遂行 要領」では、「帝国ハ現下ノ危局ヲ打開シテ自存自 衛ヲ完ウシ大東亜ノ新秩序ヲ建設スル為此際対米英 蘭戦ヲ決意シ」としていた。

 文章上は、「大東亜共栄圏」=「大東亜新秩序」 と「自存自衛」の二つの目的が微妙なニュアンスを もって掲げられたのである。

 11月1日の大本営政府連絡会議で「帝国国策遂行 要領」を決定したあと、2日に東条首相、永野修身 軍令部総長、杉山元参謀総長の三人が会議の結果を 天皇に報告した際、天皇から「大義名分ヲ如何二考 ウルヤ」と質問され、東条首相は「目下研究中デア リマシテ何レ奏上致シマス」と答えている。

 かくして大本営政府連絡会議でも2月中旬数回に わたって大本営陸軍部作成の「開戦名目骨子案」が 討議された。 開戦を決意してからその名目をさがすという事態の 中にこの戦争の大きな問題がある。

 結局12月8日の宣戦の詔書には、「帝国ハ今ヤ自 存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外 ナキナリ」として、「自存自衛」が強調された。 しかし、開戦後の12月10日の連絡会議が今次の戦争 を「支那事変ヲ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と決定し、 情報局はこれを「大東亜戦争と称するは、大東亜新 秩序建設を目的とする戦争なることを意味するもの にして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあ らず」と公表した。

 ここに、1940年9月の日独伊三国同盟で協定され、 追求されつづけた独伊の欧州における新秩序建設と 「日本国ノ大東亜二於ケル新秩序二関シ指導的地位」 (第三条)を相互に認め、尊重するという ファシズム国家による世界再分割の目的が明白にみ られるのである。

 「自存自衛」の名目にしても、真の民族的危機を 意味するものではない。日中戦争継続を前提として、 日中戦争のゆきづまりを打開するために南方に石油 その他の軍需資源を求めなければならなくなったと ころから生じた危機であり、そこに「自存自衛」の 本質があった。

 この二つの戦争目的をめぐって支配層内部では思 想的統一を欠き、ある者は「自存自衛」を強調し、 ある者は「大東亜新秩序建設」を唯一の戦争目的で あると理解するなど、さまざまであった。しかし東 条首相や大本営陸軍部首脳は、
「究極のところ大東 亜新秩序を建設するのでなければ自存自衛を完うす ることはできない、自存自衛も大東亜新秩序の建設 も、表現の違いであり、盾の両面であると考えてい た。そこで危機感の高まるときには自存自衛の面が 強く叫ばれ、情勢の好転する場合には大東亜新秩序 の建設こそがこの戦争の目的であるように高く意義 づけられ」(参謀本部第一部長田中新一中将の戦後 回想)
る結果となった。

 ウヨさんたちは「大東亜戦争」は「自存自衛」 「大東亜新秩序の建設」を目的とした聖戦だと、 それを肯定美化する。上述のよ うにその大義名分がいかに手前勝手なご都合主 義的なものであったかという事実を、ウヨさんた ちはまっすぐに見ることができない。自慢史観の 根拠は頑迷固陋なイデオロギー(虚偽意識)に過 ぎない。
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 コメント
この記事へのコメント
はじめまして
こんにちは毎日楽しく読ませてもらっております。すみませんが少し気になったので
>かくして大本営政府連絡会議でも2月中旬数回にわたって大本営陸軍部作成の「開戦名目骨子案」が討議された。
の出典がどこにあるのか教えていただけますか?
2008/01/25(金) 16:15 | URL | Y #gIYQI5Sw[ 編集]
質問にお答えします。
 問題のくだりは由井正臣著『太平洋戦争』からの引用文ですが、
(注)によると、油井氏は参謀本部編『杉山メモ』(原書房)を下敷きにしておられるようです。
2008/01/27(日) 16:50 | URL | 管理人 #-[ 編集]
ありがとうございます
本当ですか?今は手元にありませんが、杉山メモ(おそらく下です)にはこの記述がなかったんです。もう一度確認してみますね
2008/01/27(日) 17:06 | URL | Y #gIYQI5Sw[ 編集]
ご返事補足
 (注)の内容をはしょってしまってごめんなさい。『杉山メモ 上』です。(注)には次のようにあります。これは問題部分の資料としては合致しませんが、とりあえず転載しておきます。(私は「杉山メモ」を所持していません。)
『41年7月21日第三次近衛内閣の成立とともに、連絡会議の形式が若干変更され、従来木曜日定期の連絡会議に加え、月・水・土曜日に相互の情報交換の会をもつことにした。(275頁)』
 また、天皇の質問に対する東條の『目下研究中…』云々という答弁は387頁からの引用とあります。
2008/01/28(月) 09:31 | URL | 管理人 #-[ 編集]
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