2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
「原爆投下」はなぜ「不正」なのか。

国際関係における「正義論」

 前回、理想論の意義について付言したが、『ロ ールズ』の著者の川本隆史さんが同じ主旨のことを フーコーの言葉を引用して述べている。フーコーは

『自明なこと、公準と思われていることを再度問 いなおし、さまざまな慣習、思考や行動の様式に 揺さぶりをかけ、一般に通用している馴々しさを 一掃し、もろもろの規則や制度をもう一度測定し なおす』作業

を「再問題化」の作業と呼んでいる。

 ロールズの「正義論」は土俵を「他のもろもろ の社会から孤立している、閉鎖的システム」に限 って展開されている。「閉鎖的システム」とは 言い換えると、小さくは家族からはじまって学校 ・会社・各種組合・団体・国に至るまでのあらゆ る「共同体」、およそ人が協働共生すべく寄り集 うあらゆる集団を意味する。

(私は「国」と「国家」を区別して使っている。 「国」とは「国家」形成の基盤としての<協同社 会性の最大かつ最高の範囲>としての<共同体> のことである。)

 この「正義論」の土俵(適用範囲)を国際関係 にまで拡大しようとする試みが、これから紹介す るロールズの論考である。まさに、フーコーの言 葉を借りれば、「国際関係を支配する公準・通念 を揺さぶる」「再問題化」の作業と言ってよいだ ろう。

(「正義論」については 『「アイデンティティ」について』 を参照してください。)

 「国」と「国家」との区別にも関わることだが、 ちょっとこだわりたい用語がある。今回の小表題は 『諸民衆の法』だが、ロールズは始めの頃はこれを 「諸国民の法」と呼んでいた。前者は「the law of people」であり、後者は「the law of nation」で ある。たぶんロールズは、私の「国」と「国家」へ のこだわりと同じこだわりを持ったのだと思う。 訳者はその違いを「民衆」と「国民」というように 訳し分けている。私としては有名なリンカーンの 名言「government of the people, by the people, for the people」の訳「人民の人民による人民のた めの政治」にならって、「people」は「人民」が適 切だと思っている。ロールズは単なる生活者では なく社会問題や政治問題に主体的にコミットする 「people」を想定している。「民衆」ではそうした ニュアンスがそがれると、私には思われる。だが、 ここでは訳者に従って「民衆」のままで続けるこ とにする。また、個々の民衆ではなく、共同体を 構成する「集合」としての民衆を意味する場合は 「」付で書き表すことにする。

 ちょっと横道に逸れるが、ここで思い出したことが ある。沈タロウは「人民」という言葉を蛇蝎の如くに 嫌っている。「人民服」とか「人民公社」とか、中 国で多用されいるのがその理由のようだ。「人民と は共産主義国家の共産主義に染まった国民」と勝手 に解しているようだ。イデオロギーにがんじがらめ になっている狭量で哀れな男だ。文学者が聞いて 呆れる。

 本題に戻る。

 これからの議論では〈原初状態〉という概念がキ ーワードのひとつとなっている。 『「アイデンティティ」について』 から、その定義の部分を、土俵を国際社会に拡大し た場合のことに書き換えて転載しておく。

〈原初状態〉

公理1:「無知のヴェール」
 どの「民衆」も国際社会のうちで自分がどの位 置にあるかを知らない。政治的体制・国際社会での 地位役割・経済的力量・文化的知的力量・軍事力 などの諸力が生来どのように与えられているのか まったく知らない。

 さらにどの「民衆」も自分がいだいている善の 概念や自分に固有な精神的傾向がなんであるかも 知らない。

 つまり、これまでの歴史的経過や自然的環境の 偶然性などの結果によって、どの「民衆」も有利 になったり不利になったりすることはない、とい うことである。

 「原初状態」における「民衆」について、もう 一つの条件が加えられている。

公理2
 どの「民衆」も国際社会の一般的事実や差別 の存在についてはすべて知っていて、しかも、他 の「民衆」の利害に無関心であり、自分の有利な 条件を追求している。

 国際社会に拡大された土俵においては、 〈原初状態〉のもとで「公正としての正義」を討議 ・採択する主体は、諸「民衆」の代表者(想定上の) たちである。それぞれの「民衆」の所属する共同体 (社会)の政治体制については、必ずしもリベラル な政体とは想定されていない。多様な政体があり得 るという条件のもとで討議される。そして、どの 「民衆」も〈原初状態〉で討議に参加しているという 点が肝要である。

 諸「民衆」による〈原初状態〉での討議よって採 択されるであろう合意点を七点、ロールズは導出し ている。それは自由で民主的な「民衆」の間で妥当 なものとして合意される「正義の原理」であり、 これをロールズは〈諸民衆の法〉と呼んでいる。 (以下、私なりの 理解を加えて、分かりやすく書き換えている部分が ある。原文に当たっているわけではないので、もし 誤りがあれば、責は私にある。)

(一)
 どの「民衆」も自由であり、かつ独立した存在で ある。その自由と独立は他の「民衆」の尊重を受け る権利がある。

(二)
 諸「民衆」は平等であって、自分たちの合意を 取り決める当事者である。

(三)
 諸「民衆」は自衛の権利を保有する。しかし、 戦争(先制攻撃)の権利はいっさいもっていない。

(四)
 どの「民衆」も他の「民衆」の社会に介入しな い義務を遵守しなければならない。

(五)
 諸「民衆」は条約および約定を遵守しなければ ならない。

(六)
 諸「民衆」は、自衛のためにやむなく始めたも のであろうと、戦争遂行に課せられた一定の諸制 約を遵守しなければならない。

(七)
 諸「民衆」は人権を最大限に尊びその要求に応 じなければならない。


 この〈諸民衆の法〉においては(七)の 「人権」の保障が全体を貫く最重要理念である。 ここで「人権」は次の三つ事項の大事な指標と しての役目を担っている。


 「人権」は、「ある政治体制が正統でありその 法秩序がまともである」と評価されるための必要 条件である。


 「人権」は、他の「民衆」から加えられる 正当かつ強制的な介入(経済的制裁や軍事介入) であってもそれを排除しうるための十分条件である。


 諸「民衆」の多元的共存状態はただ無条件に 放置されるのでなく、「人権」の観点からは一定 の制限を賦課できる。


 以上は、1993年に行われたアムネスティイン ターナショナルでの講演「諸民衆の法」の川本さん による要約である。この項を川本さんは次のように 結んでいる。

 結語では、リベラルな理念から引き出された 〈諸民衆の法〉が、エスノセントリズム(自文化 中心主義)を免れているのか、たんに西洋的な価 値観の押し売りにすぎないものではないのかとい った自省的な問いが取り上げられる。「この法は エスノセントリズムではない。そこに西洋中心の 偏向があるとは必ずしも言いきれない」というの が(おおかたの予想どおり?)ロールズの回答で ある。この〈諸民衆の法〉こそまさに「穏当な多 元主義」を背景に鍛え上げられてきた政治的リベ ラリズム(リベラルな正義の政治的構想)の所産 であるからなのだ。

 ロールズの国際関係の理解から、非現実的な楽 観論や度しがたい西洋中心主義を摘発することは たやすい。だが、この〈諸民衆の法〉は『正義論』 で名を成した著者が老いの手慰み、あるいは思い つきとしてしゃべった机上の空論ではない。この ことだけは注意しておきたい。なぜなら彼はこの 〈諸民衆の法〉を活用して、半世紀前のアメリカ の戦争責任を問いただそうとしているからだ。そ れが(何度か予告してきた)ロールズの「ヒロシ マ発言」にほかならない。

 私はここで「穏当な多元主義」という理念に 注目したい。国家により権力的に全てを一色に染 め上げた国を「美しい国」と詐称する狆ゾウや 沈タロウのイデオロギー、あるいはアメリカの価 値観・都合を他国に武力で押し付けようと殺戮を 平気でおこなうブッシュのイデオロギーの対極に ある理念だ。

 古田さんの古代史が豊穣なのは、その「多元的 歴史観」による。

 いま佐藤優さんが面白い(肯定する部分も 肯定できない部分も含めて)。私が面白いと思 う理由は、佐藤さんが右翼を自称しているにも かかわらず、その論考に底流している「多元 主義的な寛容さ」とラジカル(根源的)な思考 姿勢にある。その2点が堅持される言論の場は、 右翼とか左翼とかのレッテルが無意味になる地 平である。佐藤さんの論考をいずれ取り上げた いと思っている。
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