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第842回 2007/08/03(金)

「真説・古代史」補充編

『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(3)


「後継后の選定」問題

 落城寸前の燃え盛る城の中で兄と運命をともにしようとし ているサホヒメに向かって、後継后の推薦を求めるとは、 なんとも不自然だ。造作された説話と考えるのが当然 だろう。では、なぜそんな「造作」が必要だったのか。 「記紀」編成のルールの(ニ)「王位継承正当化のルール」 による「造作」だ。古田さんは次のように分析している。

 わたしの回答。それは次のようだ。

(その一)
 「造作」といっても、津田史学のような後代史官の気まま な「造作」といったイメージは一蹴せねばならぬ。すでに 「八代欠史」問題について論じたように、崇神(第十代)・ 垂仁(第十一代)記の説話は、次の景行(第十二代)・成 務(第十三代)の頃伝承された。つまり選定し伝承し、公布 されたのである。その「選定」の基準は? 当然、当代 (選定の時代、その治世の王者)の利害の立場だ。その王 者の利害によって、その選定は行われるのである。

 さて、第十二代の景行の母親は、右の沙本毘売の遺言とし ての推薦の対象、兄比売、弟比売のうちの兄比売だ。比婆 須比売(ひばすひめの)命である。つまり、沙本毘売は落 城に臨んで、わざわざ次代の天皇の母親を推挙して死んだ。 そういう形の説話になっているのである。これはなぜか。

 (その二)
 ここで、核心をなすべきイメージ、根本の命題が立ち現 われる。それは近畿屈指の名門、東鯷国の王家の沙 本毘古、沙本毘売と、異域(九州)からの不法の侵入者の 子孫たる崇神・垂仁たちという概念だ。いいかえれば、尊 貴の前者と、よそものの後者。これが、当時の近畿世界の 通念であった。この一点である。

 この概念に対して、わたしたち後代人は、あるいはなじ みにくいかもしれぬ。しかし、ことは二十世紀の事件では ない。四世紀の状況だ。わたしたちはその世紀にふさわし いイメージをもって、その時代の説話を理解しなければな らないのである。

 垂仁は武力をもって東鯷国を滅亡させた。しかし、 その武力だけで、輝ける東鯷国の継承をすることは できなかった。そのため、次代、景行の母は、東鯷国 最後の王女、あの尊貴の王女が、死の間際の遺言として、推 挙してくれたのだ。そういう説話が必要だった。だから、 それを「造作」したのである。

 この垂仁記の説話を公布せねばならなかった景行たちの立 場(ひけ目)、それは右の根本問題と共に、


 景行の母たる比婆須比売より、沙本毘売の方が抜群に尊 貴であったこと。

 その沙本毘売の子である本牟智和気をさしおいて、景行 が次代の王位(天皇は後称)を継いだこと、これらに原因が あったことと思われる。

 このような視点からすると、垂仁記においてながながと 〝本牟智和気は、口が利けなかった〟というテーマについて 長広舌している理由、それも察するに難からぬところだ。 なぜか。そのより正当な継承権をもつべき本牟智和気をさし おいて、景行が即位したからである。

 以上、津田史学の提起した仮説(六世紀以降の造作説) に反し、垂仁記の説話が、次代の景行の利害をストレートに 反映して、あるいは選定され、あるいは造作されていること が知られよう。

 以上が「沙本毘古の叛乱」と呼ばれている説話の 分析である。この分析を踏まえて、古田さんはこの説話の 下敷きになっている「真相」次のように再構成している。

 このように考えてくると、わたしにはことの真相は次の ようだったように思われる。

(一)
 近畿天皇家側は、山城・河内を制圧したあと、東鯷国 の王家(摂津)と婚姻政策を結んだ。沙本毘売を人質とした のである。

(二)
 にもかかわらず、時機を見て、垂仁は沙本毘古の居城 (稲城)を囲み、長期包囲戦を展開した。沙本毘売は、 実家(沙本城)に逃げ帰った。

(三)
 沙本城はついに落城し、兄と妹は悲運の中に没した。

(四)
 当時の人々(ことに旧東鯷国の人々。近畿が中心) の間には、垂仁側の非情と沙本毘古・沙本毘売側の悲運が 語り草となった。ことに沙本毘売の立場には、大方の同情が 集っていた。

(五)
 そこで景行の治世、次のような説話が公布されることとな った。


 沙本毘古は、兄として、人間として、あるまじき要求を 妹に強要した。

 沙本毘売は、夫(垂仁)にそのことを告白した。夫がそ ういっているのだから、まちがいない。

 垂仁が義兄の城を囲んだのは、彼の不正こらしめるため の正義の戦だった。

 沙本毘亮は、兄の不正のために、兄と運命を共にすること となったけれど、にもかかわらず、その死に臨み、比婆須 比売(景行の母)たち姉妹に、あとを託して死んだ。

 すなわち、その子景行が今位についているのは、 東鯷国最後の王女、沙本毘売の遺言の実行なのであ る。

 以上だ。このような実質をもつ説話が、いつ作られ、い つ公布されたか。いうまでもあるまい。 ― 景行の治世 である。
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