2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第841回 2007/08/02(木)

「真説・古代史」補充編

『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(2)


 この説話正しく解読するための最大のポイントは、 サホヒコとイサチの攻防戦の場・沙本(さほ)の比定である。 「さほ」とは何処か。

 「定説」ではなんの議論もなく大和の沙本と見なしている。 奈良市近辺の佐保、佐保川もある。古田さんはこの地名比定 の吟味からこの説話の解読を始めている。①、②から次のよう な理路により、「佐保」の地を摂津と比定している。

 吟味してみよう。

(一)
 『古事記』では、地名を書くとき「AのB」の形で書く。吉 備国の児島(仁徳記)のように。ところが、近畿(大和・河 内・摂津・和泉等)の場合、「…国の」というAを省くこと が多い。したがってただ「沙本」とある場合、近幾内の沙本 と見なすべき可能性が高い。

(ニ)
 近畿には、二つの「佐保」がある。前記大和の佐保(奈良 市)と、摂津の佐保(茨木市)だ。いずれも「佐保」と 「佐保川」がある。このいずれだろうか。

(三)
 先の説話の末尾に「(天皇)其の地を皆奪ひ取る」とある (真福寺本。後代の写本では「取」字をカット)。この 「沙本」の地が、それまでは近畿天皇家側の所有ではなかっ たことをしめしている。奈良市の場合、すでに近畿天皇家 側は大和盆地を支配していたのであるから、考えられない。 この点、崇神天皇の時、ようやく山城・河内を支配したけ れど、いまだ摂津には及んでいなかったのであるから、茨 木市の佐保の方が適切である。

(四)
 先にのべたように、崇神側の軍に追われた建波邇安王の 敗軍は、河内の樟葉辺から淀川を渡って対岸へ逃れようと している。対岸は、摂津だ。ここにも、摂津が彼等の本拠 の地であること、そこはいまだ、崇神側の手の及びえぬ地 帯であったことをしめしている。

(五)
 右の「奪ひ取る」という、その対象は「玉作り」の地で あった。ところが、茨木市の東奈良遺跡(佐保川の下流域) からは、ガラスの勾玉の鋳型が出土している。弥生期の出土 としては、他には博多湾岸(春日市)以外にない(吉備にも、 可能性が予測されている)。したがってこの摂津の佐保川 流域が、近畿における「玉作り」の地として著名、出色であ ったことは疑えない。ガラス、つまり破璃は、弥生期におい て貴重な宝物である。当然、その産地は周辺の人々にとって 垂涎の的であり、奪取するにふさわしき地であったものと思 われる。

(六)
 沙本毘古が築いたという「稲城」について、『日本書紀』 の雄略紀では、「天皇の(き)」と対比して使われている (「天皇の城は竪からず。我が父の城(稲城)は堅し」。 根使主(ねのおみ)。和泉国日根郡)。この点から見ても、 「佐保の稲城」が、天皇家のお膝元ともいうべき「奈良市 内の佐保」とは考えにくい。

(七)
 例によって、記紀は、沙本毘古を近畿天皇家、第九代開化 天皇の皇子として血脈の中に記している。しかしこれが血脈 国家主義にもとづく系譜の虚構であることは、前述の建波 邇安王の場合と同じだ(この点は、地名比定とは直接の関係 はない)。

 以上、沙本毘古王の本拠は、奈良市近辺ではなく、茨木市 近辺であったことが判明した。すなわち、銅鐸圏、東鯷国の 中枢の地、最大の銅鐸鋳型の密集出土域、そここそ沙本毘古と 沙本毘売の居城、稲城の地であった。(茨木市には上穂積・中穂積・ 下穂積の広大な領域がある。)

佐保はどこか


 ①の最後に「イサチは后が懐妊しているために、これを 攻めるに忍びず、三年の間、城を包囲したまま、時を過し た。」とあり、イサチが手心を加えたという説話になって いるが、これはサホヒコの「稲城」(沙本城)が堅固なた めに攻めあぐみ長期包囲戦にならざるを得なかったというの が実状だろう。

 ③には吟味すべき問題点が二つある。一つは「命名説話」 もう一つは「後継后の選定」という奇妙な説話だ。

 「命名説話」
 〝子供の名前は、母がつけるもの″という考え方が語ら れている。出産は実家でするという慣習があったのだろうか。 その場合は、一定期間実家で養育することになろう。当然 名前を必要とする。少なくとも幼名は母がつけることにな ろう。

 そうだとすると、サホヒメはイサチが沙本城を包囲した 後で城に逃げ込んだ のではなく、サホヒメが出産のために城に帰っていたときを 選んでイサチが沙本城攻めを始めた、と考えることもできる。 古田さんは「このような想像は、あまりにもこわす ぎる。そして歴史学は、思うに、語りすぎてはならないであ ろう。」と、この推理を打ち切っているが、私はこの推定の 方が事実に近いのではないかと思っている。しかし、 これは「命名説話」の本質的は問題ではない。この説話の 本質点を古田さんは次のように解いている。

 〝子の名は母がつけるもの″。これは、あるいは古代の 慣例にもとづくものかもしれぬ。しかし、この名づけ説話 はいかにも苦しい。なぜなら、沙本城側にとっては、痛恨 のはずの火炎の中の落城を、命名の根拠にするとは。いか にも、ありにくい話だ。

 「ほむつわけ」、もしくは「ほむちわけ」の「ほむ」は、 のちの 「誉田別」(ホンダワケ応神天皇)と同根の地名 語幹ではあるまいか。「火」よりも、むしろ「秀」「誉」 などに近い意義ではあるまいか。「つ」は津、「ち」は神 を意味する(「足なづち」「手なづち」の「ち」が神を意 味する)。

 この点、茨木市内にある広汎な「穂積」の地名が、「ほ (秀か)」と「津」と「み」(神の語幹。やはり神を意味 する)の内容をもっているのと、同類性をもつ点、注目さ れる。隣接した「高槻」は「高津城」であろう。

 要するに、「ほむつ(ち)別王」とは、そのような地名に 立脚した王名であり、これを火炎の中の落城に結びつけたの は、すでに見た箸墓の地名説話などと同類の人名説話なので はあるまいか。

 (したがって毘売の答えの「今当火焼稲城之時而、火中所 生。故……」という一節は、先の「三年攻囲」状況とあるい は矛盾するかに見えるけれども、右のように、この説話自体 が「造作」された人名説話だ。そのために現われた一種の 齟齬なのではあるまいか。)
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/856-15c313e8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック