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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
「真説・古代史」補充編

『ヤマト王権の近畿侵略史』:木津川の決戦


 「東鯷国の行政機構」 で概観したようにヤマト王権は、 10代のミマキイリビコイヱニ(崇神しうじん)」が 大和盆地外への侵略戦争を開始し、支配地域の拡大をはかり、 11代のイクメイリビコイサチ(垂仁すいにん)」の時代に 銅鐸圏(東鯷国)の中枢部を打倒し、その遺産を略 奪した。

 これから「崇神記」「垂仁記」の侵略戦争説話 を読んで、東鯷国滅亡の経過をたどることになるが、 「古代史年表」 <で推定したように、中国では西晋時代、朝鮮では三韓時代、 九州王朝では壹与(邪馬壹国)の後の時代に当たる。

 まずは「崇神記」から。

 ミマキイリビコの侵略は「東方十二道」の平定から始 まっている。「東方十二道」がどこを指すのか、また 行軍はどのようなルートを採ったのかは詳らかではない。 しかし、イワレヒコの轍を踏まぬように、東鯷国 中枢部との正面衝突を避けて、まずは周辺部の地域的な 弱い国家を制圧をする包囲作戦を選んだのであろう。具体的な 地名と人名が書き残されている戦いが二つある。

 大毘古命をば高志(こし)道に遣はし、その子建沼河 別命をば、東の方十二道に遣はして伏(まつろ)はぬ人 等を和平(やは)さしめき。
 又日子坐(ひこます)王をば、旦波国に遣わして、 玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめき。


 高志(こし)道と旦波国の玖賀耳之御笠についての 古田さんの解説を聞こう。

 高志道が越の国(越前・越中・越後)方面への道を指 していることは疑いない。かつて縄文晩期、能登半島に はチカモリ遺跡(金沢市)、祭祀遺跡(羽咋市)、真脇 遺跡(真脇町)等の縄文文明が繁栄していた。それらの いずれの地点まで、大和を発した北陸方面軍が到達した か、またどのようなルートを通ってそこへ向ったか、そ れらは不明である。

 旦波では、玖賀耳之御笠という具体的な敵対者の名前 があげられている。「耳」というのは『三国志』の魏志 倭人伝にも出てくる官名である。投馬国の長官「弥弥」、 副官「弥弥那利」といった風に。近畿の河内・和泉のあ たりにも、「耳原」といった地名があった。弥生期の日 本列島には、各地にこの官名が存在していたようである。

 ちなみに、在位時代を特定できる最初の大王・ヲホド (継体けいたい507-531)は、それまでのヤマト王朝とは 別系統の王であり、越の国からやってきている。後に 詳しく取り上げる予定だ。

 さて、ミマキイリビコの「東鯷国侵略譚」説話は、この後、異母兄の「タケハニヤスの叛乱」を記録している。しかし、タケハニヤスは2代前のネコヒコクニクル(孝元)と「河内の青玉の女」ハニヤスビメ(第三妃)との子だ。また、次代のネコヒコオオビビ(開化)はネコヒコクニクルの第二妃・イカガヒコメを妃とした。ミマキイリビコはその子息である。だから、タケハニヤスはミマキイリビコの叔父に当たる。ああ、ややこしややこし、なのだが、タケハニヤスをネコヒコクニクル(孝元)の子としているのは、『記紀』の表記のルールの一つ「ヤマト王権中心イデオロギー」のルールの適応例だろう。『古事記』の記録にかかわらず、タケハニヤスは東鯷国の中枢(河内・摂津)を根拠地としていた東鯷国側の王であった。

 タケハニヤス軍とヤマト軍との決戦 は山代の国の和訶羅河(木津川)で行われたが、タケハ ニヤスはそこで討たれてタケハニヤス軍は河内へと敗走 している。

 ヤマト軍はタケハニヤス軍の敗走兵を容赦なく追っていく。

 ここにその逃ぐる軍を追ひ迫(せ)めて、久須婆(くすば) の渡(わたり)に到りし時、皆迫め窘(たしな)めらえて、 屎(くそ)出でて褌(はかま)に懸(かか)りき。故、其 の地を号けて屎褌(くそばかま)と謂ふ。 今は久須婆と謂ふ。
 又その逃ぐる軍を遮りて斬れば、鵜の如く河に浮きき。 故、その河を号けて鵜河と謂ふなり。
 又その軍士を斬りはふりき。故、其の地を号けて 波布理曽能(はふりその)と謂ふ。


 皆殺しの殺戮を得意げに記録している。そして地名説話 にことよせて、東鯷国側への差別意識をあからさまに 表明している。

 右で「屎褌」といっているのは、現在の「樟葉」だ。 河内国北部である。もちろん、樟葉の地名の語源は右 のようなものとは無関係だ。

 「~葉」というのは、「生葉(いくは)」(筑後)、「志芳(しは)」 (安芸)といった地名の接尾辞である。
 「くす」の「す」は「須磨」の「す」、「烏丸 (=唐須磨か)」の「す」であろう(「ま」は 「やま」「しま」などの「ま」。地勢をしめす接尾辞)。
 「く」は「ちくし」「つくし」の「く」と同じく、 〝相重なれる”状況をしめす、むしろ賞め言葉であろう。

 だが、それを近畿天皇家の侵略成功譚にこじつけた地 名説話に仕立て直しているのである。当然、被征服者側 (河内・摂津側)への蔑視・賤視の証拠、その反映とし て注目される。

 この点からも、この決戦が、単なる天皇家内部の争乱 などでなかったことが示唆されていよう。大和盆地内部 の一豪族だった天皇家にとって、盆地外の河内、あの長 髄彦の故地を侵略し、征服しえた記念すべき一大決戦、 それがこの木津川の決戦だったのである。その決戦の地 は、東鯷国側にとって神聖の地だったようである。

 (波布理曽能について)
 これは現在の京都府相楽郡祝園だ。この字面のしめす 通り、ここは「祝部(はふりべ)」のいるところ、 「祝」と呼ばれる祭儀の行われるべき神聖の地だったこ とであろう。

 しかるに、天皇家側はこれに対し、「ハニヤスの軍を はふったから、はふりそのだ」という珍解釈を与えてい る。崇神側の軍の中には、勝ち軍に酔い痴れて、そのよ うな駄じゃれを口にしたやからもいたかもしれぬ。しか し、それをレッキたる地名説話めかして、伝承するとは。 少なくとも、ここを神聖なる「祝園」としていつき 伝えてきた人々の側から発生すべき説話ではない。

 明らかに、崇神たちと建波適安王たちと、その両者は 祭儀の様式を異にしていたのである。
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