2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
「真説・古代史」補充編

『ヤマト王権の近畿侵略史』:イワレヒコから第二代への継承

 「ヤマト王権の近畿侵略史」とは裏を返せば 「東鯷国の滅亡史」である。東鯷国側の 史料は残されていないから、当然のことながら、 『記紀』の記録を頼りに解読することになる。

 イワレヒコは奈良盆地に侵入し、その一角に拠点を確保 することに成功した。しかし、その後初期八代のイワレヒコ の後継者についての記録は、一般に「欠史八代」と言われ ているように、内容の乏しいものである。戦後史学会は、 これを理由にイワレヒコを含めて初期九代の「天皇」は 8世紀の吏官による「造作」であり、架空の人物と断じた。 一方、皇国史観論者はこの「欠史」には見てみぬふりを するほかなかった。しかしもちろん、大日本帝国下の 教育ではそれには知らんふりを決め込んで、この九代も含 めて、歴代天皇名の棒暗記を全生徒に強いてきた。覚えら れない者には鉄拳という罰が容赦なく飛んだ。いま、 珍タロウが行っている「君が代の強制」はその愚行の延 長上にある。「君が代」を歌わない者に対して、処分と 見せしめ(非行扱いの研修)という拳をふりあげて、 恫喝している。

 さて、古田理論を論破する理論も考古学的発見も今の ところ皆無である。古田理論を正しいと断じることが、 私(たち)の理性の帰趨するところである。従って、 私(たち)はイワレヒコとともに「欠史八代」も架空の 人物とは看做さない。

 イワレヒコ後の初期八代の王の記録のほとんどは 「だれそれを娶って、なになにという王子や王女をもうけた。 なになにはなにがしの祖である。」といった血統記に始終し ている。しかし、これだけの記事からも読み取れる重要事 がある。

 各代の王が娶ったとされる后の出自のうち、注目すべきものを 抜き出してみる。

1 カムヤマトイワレヒコ(神武ジンム)

 イワレヒコは既に日向でアヒラヒメと結婚していたが、 奈良でも土地の娘(イスケヨリヒメ)を娶っている。イス ケヨリヒメは三輪の大物主神の娘とされている。つまり、土着 の最高神にゆかりの娘である。いわゆる政略結婚である。

 アヒラヒメは二人の王子(タギシミミ、キスミミ)を 産んでいる。イスケヨリヒメは三人(ヒコヤイ、カムヤイミミ、 カムヌナカハミミ)の王子を産んでいる。そして、 イスケヨリヒメの末子・カムヌナカハミミ(綏靖スイゼ イ)が第二代を継いでいる。その王位 継承の正当化説話が「神武記」に記録されている「タギ シミミの叛乱」と呼ばれている説話である。初めての王 位継承をめぐる権力闘争において、早くも血肉同士の殺 し合いをやらかしている。

 前回確認したように、この説話は第二代王のカムヌナ カハミミの利害にかなった形で伝承(古田さんにならって「選定・伝誦 ・公布」という三語を総合した意で用いる。)されてき たものだ。その「お話し」はおよそ次の通りである。

 イワレヒコの死後、タギシミミは義母のイスケヨリヒメ を娶った。そしてその后の子、つまり義理の子にして異母弟 の三人の王子を亡き者にしようとした。それを知った三人の母親イスケヨリ ヒメがそのことを三人の王子に通報する。三兄弟は 逆にタギシミミを殺そうと兵を起こした。 。 (以下は『神武記』より)

 ここにその御子聞き知りて驚きて、すなはち當藝志 美美(タギシミミ)を殺さむとしたまひし時、神沼河耳 (カムヌナカハミミ)命、その兄神八井耳(カムヤイミミ) 命に曰(まを)ししく、「汝(な)ね、汝命(いましみ こと)、兵(つはもの)を持ちて入りて、當藝志美美を 殺したまへ。」とまをしき。故、兵を持ちて入りて殺さ むとせし時、手足わななきて、得(え)殺したまはざり き。故ここにその弟神沼河耳命、その兄の持てる兵を乞 ひ取りて、入りて當藝志美美を殺したまひき。故またそ の御名を称(たた)えて、建沼河耳命と謂ふ。

 ここに神八井耳命、弟建招河耳命に譲りて曰しけらく、 「吾は仇(あた)を殺すこと能はず。汝命既に仇を得 殺したまひき。故、吾は兄なれとも上(かみ)となるべ からず。ここをもちて汝命上となりて、天の下治らしめ せ。僕(あ)は汝命を扶(たす)けて、忌人(いはひび と)となりて仕へ奉らむ。」とまをしき。


 これは「タギシミミの叛乱」ではなく、「ヌナカハミミの叛乱」 であろう。しかも、兄を差し置いて末弟が王位を継承した、 ということをも正当化している説話だ。はじめに、タギ シミミ殺害を弟が兄に命令しているのも奇妙だ。また、 タギシミミ殺害の場面に長兄が影も見せていないのも 奇妙だ。

 タギシミミの弟・キスミミの消息は何も伝えられていない。 いずれにしてもこの段階でヤマト王権は、血縁的には 日向とは切れたことになる。そして、三輪の大物主神に ゆかりの母を持つ王子が後を継いだことが、ヤマト王権 が奈良の地にある程度の地位を固める事に成功した一因 だったのではないだろうか。

 初代イワレヒコ(神武ジンム)から第九代ネコヒコオ オビビ(開化カイクワ)までの后の出自を抜書きしてみる。

1 イワレヒコ(神武ジンム)
 三輪の大物主神の女(むすめ)

2 ヌナカワミミ(綏靖スイゼイ)
 師木県主(しきのあがたぬし)の祖

3 シキツヒコタマテミ(安寧アンネイ)
 県主波延(あがたぬしはえ)の女

4 ヒコスキトモ(懿徳イトク)
 師木県主(しきのあがたぬし)の祖

5 ミマツヒコカヱシネ(孝昭カウセウ)
 尾張連(おわりのむらじ)の妹

6 タラヒコクニオシビト(孝安カウアン)
 姪

7 ネコヒコフトニ(孝霊カウレイ)
 十市県主(とをちのあがたぬし)の祖の女、 春日の比売(ひめ)、大和の比売とその妹

8 ネコヒコクニクル(孝元カウグヱン)
 穂積臣等(ほずみのおみら)の祖の妹と女、 河内の青玉の女、尾張連の祖の女、木国造 (きのくにのみやつこ)の娘

9 ネコヒコオオビビ(開化カイクワ)
 旦波(たには)の大県主(おおあがたぬし)の女、 庶母(ままはは)、丸邇臣(わにのおみ)の祖の妹 葛城の垂見宿禰(たるみのすくね)の女

 ここに表われる「大県主」や「県主」や「国造」が 東鯷国の官職名であることは 「東鯷国の行政機構」 で論証した。つまり上の抜書きは次ことを如実に示している。 すなわち、初期八代の王たちは、奈良盆地内から始めて、 やがて盆地外にも触手を延ばしながら、もっぱら政略結 婚に精を出して、東鯷国に徐々に潜入していった。
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