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第830回 2007/07/20(金)

「真説・古代史」補充編

『神武東侵』:日下の戦いで惨敗する。


 吉備の高島宮を出帆したイワレヒコ兄弟率いる 武装船団は「速吸門(はやすひのと)」に向かった。 そこで土地の老人槁根津日子(さおねつひこ)に出会い、 その水先案内によって無事「速吸門」を通過することが できた。

 この「速吸門」とはどこか。日本書紀は「速吸門」の説話を 日向から宇佐への旅程においている。つまり豊予海峡を指して いる。岩波古典文学大系『古事記』は頭注で「古事記は東征の順路が不合理 である。書紀が速吸の門を宇佐の前においているのが正しい。」 と書いている。これが「定説」になっている。当然、森教授も 何の疑いもなくこの「定説」を採用している。史料批判の 不徹底によって陥る誤答の一つだ。

 この「定説」は本居宣長に発している。徹底して「古事記」 こそ「正史」と考えている宣長がこの問題では「日本書紀」に 屈している。その理由は「豊予海峡には速吸門という 名前があるから」。しかし、日本書紀の説話をもとに「豊予海峡」 に「速吸門」という名を付した可能性がある。すると 「豊予海峡には速吸門という名前がついているから日本書紀が 正しい」という理屈は全く意味をなさない。

 この問題を説話全体の中に置いてみれば、「古事記」の方が 適切であることが明らかだ。なぜなら、豊予海峡の通過には 水先案内など不要だ。九州本土に沿って北上すれば簡単に 宇佐に到着する。また、その海道はイワレヒコたちにとって は通いなれた道だろう。九州王朝の傍流として日向を根拠とする とする豪族だったイワレヒコ兄弟は九州王朝の本拠地の 筑紫へはよく通っていたはずだ。 (「ヤマト王権」の出自(4) 「ヤマト王権」の出自(5)を 参照)
 では「速吸門」とはどこか。

 吉備から難波への海道といったら「明石海峡」か「鳴門海峡」 しかない。明石海峡は本州の南岸に沿って進めば難なく難波に 至る。それに「速吸門」というほどの難所ではない。やはり 水先案内を必要としない。残った鳴門海峡は時は大きく渦巻き 流れも変化をともなって早い。まさに「速吸門」というに ふさわしい。初めての者にはここは容易には通過できま い。その海峡の流れの変化に精通した水先案内が必要だ。

 でもなぜ、イワレヒコ兄弟の武装船団は容易な明石海峡を 選ばずに鳴門海峡という難所の方を選んだのか。

 再び弥生時代の銅製器の分布図を見てみよう。

青銅器分布


 細矛・細戈・細剣などの銅製武器の分布は、 ほぼ淡路島を東限としている。淡路島以東は純粋な銅鐸 圏に入る。そして瀬戸内海領域は、銅製武器と銅鐸との 混合圏である。

 イワレヒコたちの武装船団は吉備の岡田の宮までは 全く戦闘をしていない。この分布図から、その理由が よく分かる。そこまではイワレヒコたちを受け入れる ことができる同一勢力圏だったからだ。そして淡路島 を通過するということは、銅鐸圏というイワレヒコたち とは別の勢力圏に突入することを意味する。侵略の意図 を持つ武装船団を銅鐸圏の国々(東鯷国傘下の) が黙って通過させるはずがないだろう。イワレヒコたち は敢えて危険な鳴門海峡を選んで、奇襲戦法を取っ たのだ。

 鳴門海峡を無事に通過した武装軍団は難波の渡を経て、 「青雲の白肩津」=「日下(くさか)の蓼津(たてつ)」 に武装船団を乗り入れることに成功した。しかし、そこ には東鯷国の大王・「登美(とみ)の那賀須泥毘 古(ながすねびこ)」(日本書紀では「長髄彦」と表記) が待ち構えていた。激しい戦いのさなか、侵略軍の最高 司令官・五瀬命が登美毘古の矢を受けて重傷を負い、侵 略船団は「南方(みなみのかた)」より「血沼海(ちぬ まのうみ)」へと逃れ出た。さらに 逃れて「紀国の男(お)の水門(みなと)」に着いたと ころで五瀬命は絶命する。以後、イワレヒコが侵略軍を 率いることになる。

 さて、この戦闘譚に皇国史観者たちは困ってしまう。 武装船団が那賀須泥毘古と相対した「日下の楯津」は 海岸よりずっと奥まった陸地にある。そこに船を乗り 入れたと物語っている。しかもそこから南の方に逃れて 「チヌの海」(大阪湾)にでるなど、全く不可能である。 戦後のヤマト王権一元主義者たちは勝ち誇る。それみた ことか、古事記の説話は8世紀の吏官たちの「造作」した ものだ、と。

 この難問を本居宣長はどのように料理しているの だろうか。古田さんの解説があるので聞いてみよう。

 この点に“悩んだ”のが、本居宣長だ。彼は『古事記 伝』で次にようにのべている。

「さて此に河内国とあるに依て、草香を河内ノ国 河内ノ郡なる日下とのみ誰も思ひ居るも誤なりなり。 河内の日下は海辺にあらざれば、船の泊る処ならず、 川にも津といふことはあれども、かの日下は、船通る ばかりの川だに無き地なる物をや、白肩ノ津草香ノ津 など云むは、必海辺と聞えたれば、和泉の日下なるこ と疑ひなし。」

右で「河内国」と言っているのは、『日本書紀』に、

「徑(タダ)二河内国草香邑(クサカノムラ)青雲白肩 之津二至ル」(「神武紀」)

とあるのによる。しかし宜長は、ここは海辺ではないか ら、非。「和泉の日下」のほうだ、と主張したのである。 その結果、

「蓼津、小地名は他の古書にも見へず、今に聞こへず」

 という次第となったのだ。

 自説に都合が悪いと「間違いだ」とか「造作だ」とかして、 原史料を改竄してしまう邪道は、現代のヤマト王権一元 論者のよくするところでもある。

 正解は次の地図が物語っている。大阪府が地質学者と 考古学者の協力を得て作成した弥生期から古墳期にかけての 頃の地図である。

大阪古代地図
 この地形を見れば、古事記の「神武東侵」の説話は 訂正の必要はないだろう。「日下の楯津」には船でいけるし、 「南の方」は方角を示す言葉ではなく、地名だったことがわかる。 そして「南方」からチヌの海に抜けられることも明らかだ。

「南方」からチヌの海へと隘路を抜けるときにも、たぶん、 侵略軍団は両岸から雨あられのような矢を射掛けられたこと だろう。

 このような地図を知る由もない本居宣長が苦しい解釈を 余儀なくされたのは同情できるとしても、現在の学者たち が『「神武東侵」の説話は8世紀吏官の「造作」』という 「定説」になおも固執することは許されまい。なぜなら 上の地図のような弥生期~古墳期の地形は8世紀の吏官の 知るところででもなかったのだから、上のような「神武 東侵」の説話を8世紀吏官が「造作」できるわけがない。 「神武東侵」の説話は単なる「造作」ではなく歴史的事 件を反映している説話だと考えるのが論理の赴くところ ではないか。
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