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第829回 2007/07/19(木)

「真説・古代史」補充編

『神武東侵』:日向から吉備の高島宮まで


 今回からヤマト王権による東鯷国への侵略 をテーマにとりあげる。過去の記事

「ヤマト王権」の出自(1)
「ヤマト王権」の出自(2)
「ヤマト王権」の出自(3)
「ヤマト王権」の出自(4)
「ヤマト王権」の出自(5)
「ヤマト王権」の出自(6)

の続編に当たる。

 まず、神武天皇の呼び名の確認をしておこう。

 周知のように「神武天皇」という呼称は8世紀以後に つけられた「漢風諡号(かんぷうしごう)」と呼ばれてい るものである。8世紀以前のヤマト王権はまだ「天皇」と いう呼称を用いるほどの分際ではなかった。8世紀以前の ヤマト王権の王たちを扱う場合、漢風諡号を用いるの は適切ではない。

 『神武記』は「神倭(かんやまと)伊波礼毘古命 (いはれひこのみこと)」という呼び名で書き始められ ているので、私はイワレヒコと呼んできたし、これからも この呼び名を使おう。

 しかし、この呼び名は明らかに、大和盆地に侵略して そこに拠点を獲得した以後の呼び名だ。『古事記』 神代記の最後に、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命 (あまつひこひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと) の第四男として生まれて、その名は若御毛沼命(わかみけぬのみ こと)または豊御毛沼命または神倭伊波礼毘古命と言うとある。 『日本書紀』の「一書(第一)」には幼名は狭野命(さ ぬのみこと)といったとある。

 「神武東侵」の説話は『古事記』が原型で『日本書紀』 はそれを大幅に改変している。(論証は割愛する。)以 下は「神武記」をもとに話を進める。

 さて、イワレヒコは兄のイツセの命と協議する。

「何地に坐(ま)さば、平らけく天(あめ)の下の政(まつ りごと)を聞しめさむ。なお東に行かむ。」

 倭国の中枢は筑紫であり、イワレヒコ兄弟の領地・日向 (ひゅうが)は辺境の地。その地ではうだつがあがらぬ ことを悟って、兄弟は新天地を求めて東を目指すことを 決意する。

 イワレヒコが日向(ひゅうが)を出立してから、 東鯷国に侵略を開始するまでの旅程を簡単にまと めておく。

神武東侵の経路


 イワレヒコ兄弟は日向を出発した。そのあと、宇佐に 到着した。そこで土地の豪族である字沙都比古(うさとひこ)・字沙都比 売(うさちひめ)の厚遇をうける。このあと、関門海峡を 通過し、遠賀川下流の岡田宮へ向かった。岡田には1年滞在 した。

 次に岡田を発ってふたたび関門海峡を通過し安岐の多 祁理(たけり)の宮に寄港した。ここでは7年を過ごし ている。

 次に吉備の高島宮に行く。ここでは8年を費やしている。 そしてここまでは戦闘は全くない。

 高島から東鯷国侵略の出立をし、難波ではじめ て侵略戦争が始められる。

 ここまでの寄港地と滞在年数(「二倍年暦」で表記され ているとすれば、その半分の年数となる。)をまとめる と

宇佐       不記
竺紫の岡田宮   1年
阿岐国の多祁埋宮 7年
吉備の高島宮   8年

 ここでは検討すべき問題を三点指摘できる。


 イワレヒコ兄弟はどこで「なお東に行かむ。」と 協議したのか。この問題は

「ヤマト王権」の出自(4)
「ヤマト王権」の出自(5)


で詳述している。


 宇佐→岡田は東方ではなく方角ちがいだが、なぜ岡田宮 に立ち寄ったのか。


 大和が当初からの目的地とすると、各寄港地での滞在年 数が、単なる寄港としては長すぎるのはなぜか。

 ②③の二つの問題点の解明は、イワレヒコの家系や生誕 地、あるいは東侵の発進地や東侵の当初の目的などを解明 することと同じである。しかしこれら問題を解く前に、と もかく「神武東侵」の物語を一通り復習しておくことにす る。戦後は学会も教育界も神話や「神武東侵」を扱うこと をタブーとしてきたので、この物語を知らない人が案外と 多いのではないかと思う。これからの種々の議論を理解す るうえで、物語を一通り知っておいた方がよいだろう。

 次回はイワレヒコ軍団の東鯷国への侵略開始 の物語を、「定説」を検討しながら、たどることにする
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