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第828回 2007/07/18(水)

「真説・古代史」補充編

「竺志の惣領」は占領軍総司令官


 「三セズ」(採択せず・論争せず・相手にせず)は 歴史学会の至上指令なのだろうか。相変わらず古田 古代学を無視しつづけているようだ。しかし、アカデミ ズムという徒弟関係からは自由な多くの市井の研究者た ちが古田古代学を継承し発展させている。そのあらましを 新古代学の扉 で知ることができる。今回から、このホームページから 得られる諸氏の研究成果をも適時利用させていただくことにする。

 さて、今日の記事は「竺志の惣領」がテーマだが、

白村江の戦(1)
白村江の戦(2)
白村江の戦(3)
白村江の戦(4)
ヤマト王朝の成立

の「補充編」にあたる。

 『続日本紀』で使われる「惣領」という言葉は、もちろん、 後の時代の武家の「惣領制」とは関係ない。また、『続日本紀』 の時代に「惣領」という役職があったのかどうか、 『続日本紀』でこの言葉が使われているのはここだけなの か、詳らかではない。今は「竺志の惣領」を「竺志を統治し ている行政府の総帥」という意味と考えておこう。

 「白村江の戦」の戦後処理がどのようになされたか。 『日本書紀』『旧唐書』『三国史記』から読み取れることを まとめると次のようになる。

(1)
 白村江の大敗以後、「倭国」(九州王朝)は衰退にむか い、滅亡の危機に直面した。

(2)
 勝者・唐側は兼ねて友好関係を結んでいたヤマト王権を 「日本国」として公認した。

(3)
 戦後処理のため唐の武将・郭務悰(かくむそう) が四度「倭国」あるいは「日本国」を訪れている。

①664(天智3)年5月
 百済の鎮将・劉仁願(りゅうじんがん)の命による。
 12月に対馬・壱岐・筑紫などに防人が置かれている。

②665(天智4)年9月
 劉徳高と共に来訪。総勢254人。唐の高宗の命による。

③669(天智8)年12月
 2千余人を引き連れて来訪。

④671(天智10)年11月
 舟47隻、総勢2000人で来訪。
 捕虜として捕囚されていた筑紫の君・薩野馬 (さちやま)解放される。

 この唐からの度々の来訪について、肉付けしてみよう。 (あくまでも推定。)


 「倭国」との講和会議。その条件は、「倭国」の中枢部、 朝鮮半島に直面している筑紫からの九州王朝の退去。 トップの筑紫の君・薩野馬を捕囚されている「倭国」はその条件 を飲まざるを得なかった。
 朝鮮半島は「日本国」とともに唐の庇護下にあった のだから、対馬・壱岐・筑紫などに置かれた防人は、 当初は朝鮮半島に向けての防禦ではなく、「倭国」に 対する防人であった。


 唐、筑紫占領の先遣隊派遣。「倭国」処分をめぐって 「日本国」と協議。


 唐、筑紫占領軍本隊を派遣。

 唐にとって、「倭国」は衰退したとはいえなお大義名 分をもつ政権であり、「日本国」だけに任せておける状 況ではなかった。そこで第2次占領軍派遣。
 万全の体制を整えたので、筑紫の君・薩野馬を許す。


 大略、このようであったと思われる。

 2度にわたる計4000人以上もの派遣は、筑紫を拠点に 「倭国」を監視牽制するための占領軍であった。いま、 イラクの新傀儡政権を保持し続けるためにアメリカ軍が イラクを占領し続けている。イラク傀儡軍はまったく 頼りにならならず、アメリカ軍は撤退できずにいる。 それと同じ構図が浮かび上がってくる。

 700年の「倭国」と「日本国」との武力衝突の解決に 力を発揮した「竺志の惣領」とはこの唐の駐留軍ある いはその駐留軍の訓練を受けて後を継いだ「日本国」 の筑紫占領軍の総司令官のことだろう。
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