2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
「真説・古代史」補充編

九州王朝関係書物は「禁書」として処分された。


 日本書紀が「一書に曰く」として記録している「日本旧紀」 を初めとする諸々の「一書」や、その存在が想定される 「倭国万葉集」はどうして今に残されていないのか。 九州王朝の痕跡はヤマト王権にとって不都合な ので徹底的に弾圧され抹消された、と容易に想像できる。 それが単なる「想像」にとどまらないことを「続日本紀」 という史料がおのずと物語っている。

 元明天皇は即位に当たって全国的に大赦を行った。その 大赦を告げる文書の中に次の一文がある。(以下の 「続日本紀」からの引用文は岩波文庫の宇治谷猛訳・現 代語訳版による。)

707(慶雲4)年7月17日
 山や沢に逃げ軍器をしまいかくしている者は、百日を 経て自首しなければ、本来のように罪する。


 続いて708年の正月にも大赦が行われたが、その文書の中に は次の一文がある。

708(和銅元)年1月11日
 山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても自首しない ものは、本来のように罪する。


 ヤマト王権に対してなおも山沢にこもって抵抗を続けて いた人々が相当数いたことがうかがわれる。その人々は 「軍器」とともに「禁書」をも携えてヤマト王権と対峙 していた。

 「軍器」とは「軍用の器具」であり、兵器だけを指す 言葉ではない。〝正規の軍隊の戦闘行動に必要な一切の もの″を指す。

 「禁書」とは言うまでもなくヤマト王権にとっての「禁書」 であり、それはヤマト王権の大義名分とは相反する大義名分 に則る「書」である。

 つまり山沢に隠れていた人々は、山賊・盗賊の類ではな く、ヤマト王権に対抗する大義名分をもった正規軍の残党 だったと考えられる。

 さらに9年後の717(養老元)年の元正天皇による改元の 大赦では次の一文が残されている。

717(養老元)年11月17日
 山野に逃亡し、兵器を隠し持ち、百日以上になる者は、 大赦なく、もとの通り罪とする。


 ここでは「軍器」ではなく単なる「兵器」となってい る。「禁書」にもふれていない。狩り出されているのは、 もはや正規軍ではなく、敗残兵といったおもむきだ。

 上の三記事に先んじて、700(文武4)年、702(大宝2) 年の記事に薩摩・肥の国人の叛乱の記事がある。(これらの記事は 『「神代紀」再論:「熊曾国」=「日向国」ではない。』 で一度取り上げている。)

700(文武天皇4)年6月3日
 薩末(さつま)の比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はつ)・衣評(えのこおり) の督(かみ)の衣君県(えにきみあがた)・同じく助督(すけ) の衣君弖自美(てじみ)、また肝衝(きもつき)の難波、 これに従う肥人(くまひと)らが武器を持って、さきに 朝廷から派遣された覔国使(くにまぎのつかい)の 刑部真木(おきかべのまき)らをおどして、物を奪おう とした。そこで筑紫の惣領に勅を下して、犯罪の場合と 同じように処罰させた。

702(大宝2)年8月1日
 薩摩と多褹(たね)は王化に服さず、政令に逆っ ていたので、兵を遣わして征討し、戸口を調査して常駐 の宮人を置いた。

702(大宝2)年10月3日
 これより先、薩摩の隼人を征討する時、大宰府管内 の九神社に祈祷したが、実にその神威のお蔭で、荒ぶる 賊を平定することが出来た。


 ちなみに700年の記事の原文は次の通りである。

薩末比賣、久賣、波豆,衣評督衣 君縣,助督衣君弖自美,又肝衝難波,從肥人等,持兵剽劫覔 國使刑部真木等.於是敕竺志惣領,准犯決罰.

これを古田さんは次のように読み下している。

薩末の比賣、久賣、波豆,衣の評督、 衣の君縣、助督衣の君弖 自美、又肝衝の難波、肥人等に從ひ、兵を持して覔國使刑部真木等 を剽劫す。是に於て竺志の惣領に勅して犯に准じて決罰せしむ。

 『日本書紀』末尾の「持統紀」は、「壬申の乱」以降 国々は平穏となり、ヤマト王権の統治権力は平和裏に持 統から文武に継承されたことを伝えている。にもかかわらず、 この状況はどうしたことだろう。これらの記事は何を ものがたっているのだろうか。

 『続日本紀』の記事は信用できるというのが定説のよう だが、それは「書かれた事」に対してであって、 意図的にカットした「書かれていない事」に注意して読ま なければいけない。そのような視点を持ちながら、上の 諸記事も読まれなければならない。

「比賣」「評督」「助督」などは、文武天皇元年に創設 された「郡制」以前の、つまり九州王朝の「評制」の官 位名である。すなわち上記の記事は、政令を普及すべく 遣わされた覔国使と旧「評制」に立つ勢力との武 力衝突であった。7世紀末から8世紀初めにかけて「倭国」 と「日本国」との壮大な武力衝突があったのだ。 「日本国」は「竺志の惣領」の力を恃んでそれに勝ち残った。 707年・708年の記事は九州王朝ゆかりの残党勢力の掃討 戦略ということになる。このときに大方の「禁書」も 抹消された。

 ところで、ヤマト王権が武力衝突の解決に力を恃んだ 「竺志の惣領」とはなにものだろうか。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/842-692ca37d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック