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460 自由な意志力
2006年3月25日(土)


 アナーキズムは「自由な意志をによる思考と行動の自由を尊重」する。では自由な意志を基盤とした社会システムはどのようなものになるのか。
 最近出版されている吉本(隆明)さんの本はこれまでの吉本さんの営為の集大成という感がある。ただし難解と定評のころのものとはうって変わって、難しい問題を平易な言葉で実に分かりやすく書いている。
 そのうちの一冊の書名は「中学生のための社会科」という。中学生にも分かるように書くことを理想にしていた吉本さんの渾身の一冊というべきだ。想定した読者は中学生であっても決して程度を落としたり手抜きをしていない。書名に「中学生のための」という言葉を加えたのは、むしろ吉本さんの自負の表れではないかと、私は思っている。

 その本の第三章「国家と社会の寓話」に『「自由な意志力」とは何か』という一節がある。「自由な意志力」がどのような集団性を可能にするか。二つの実例をあげている。
 一つは島尾敏雄の小説から受けた感銘を深い共感ををもって紹介している。


 奄美大島の人間魚雷の基地隊長である島尾敏雄が人間魚雷を格納する海岸の洞穴を拡張する命令を部下に伝える。だが部下は動こうとしない。明日にでも出撃命令が下れば出撃して再び生きて帰還することはない。部下は洞穴を拡張する作業などやる気が起こらないのが当然で、隊長の命令は無視される。島尾隊長は部下を非難することなく、黙って自分だけがシャベルを持って洞穴を拡げる作業をはじめる。
 島尾隊長には命令に応じない部下を非難する気分など少しもないし、部下たちも自分の生命を賭けた「自由な意志カ」で、命令に服従して島尾隊長を援けることもしない。これは明日出撃して再び生きて帰還できないかもしれない生死の境で、島尾隊長と部下の集団が「自由な意志カ」だけで信頼し合っている瞬間の振舞いだといえる。つまらない優劣も差別もないし、不信のあげくの相互非難もない。「自由な意志カ」を発揮し合った者どうしのあいだに成立している集団性なのだ。

 わたしにはこれ以外に個人と「国家」と「社会」を貫いて歪曲されない「自由」は考えられない。集団や公共によって禁圧や制約を受ける自由などあり得ない。もちろんその逆もおなじだ。



 もう一つはご自身の学生時代の体験談である。


 わたしは戦中派と呼ばれる世代に属している。戦中派というのは太平洋戦争期に青春であった世代の俗称だ。そこでもう一つ戦争期のことに触れてみたい。それは「国家」と「社会」が神聖天皇制のもと、総力で軍国主義に傾き、人によってはファシズムと呼んでいる時代のことであった。
 わたしは工科の学生で学業半分、あとの半分は工場動員、農村手伝い、川原の石運び、田んぼの暗渠排水工事、そのほか勤労奉仕と呼ばれる無償の奉仕に動員されていた。お国のため、社会公共のためというのが政府筋から流れてくる第一義の課題だった。わたしたち個人個人は真剣だったが、疲れて作業したくないときも怠けて遊びたいときも家郷に帰りたいときもある。わたしたちのうちの誰かはいつも作業に精を出さないで、いい加減で、他のみんなが作業に出かけたときも誰かは遊びに出かけていた、などとはじめはいわゆる公共心と個人の都合のはざまで非難のし合い、相互不信の諍いが絶えなかった。

 しかし最後に到達したのは、他人でも自分でも、怠けたいとき、体を動かして奉仕する作業をやりたくないとき、遊びたいとき、非難も弁解もせずにそれを許容し、その欠落は黙って他人の分までやってしまうこと。自分が怠けたり作業を休んで家郷に帰っても他の者が黙って自分の分までやり、非難がましい言動は一切しないこと。そのような相互理解と個人の本音の怠惰を赦す暗黙の了解が学生どうしのあいだで成立したとき、わたしたちは公共奉仕を無理解、無体に強制する軍国主義のやり方を超えたとおもった。これは必然的に部下が休んで命令に従わないときの島尾隊長の態度と一致する。

 統率力のある指導者というのはファシズムであっても、ロシア=マルクス主義であってもダメな人物であるといっていい。そしてわたしたちが学生どうしでこの暗黙の相互理解に達したとき、軍国主義の命令に従いながら、確かにファシズムとロシア=マルクス主義を超えたということを信じて疑わない。「自由な意志力」以外のもので人間を従わせることができると妄想するすべての思想理念はダメだ。これはかなりの年月、本当は利己心に過ぎない「国家」「社会」「公共のため」の名目のもとに強制された経験と実感の果てに、わたしなどの世代が獲得した結論だといっていい。わたしはこれ以上の倫理的な判断に出会ったことがない。



 「アナーキー」という言葉は一般には「無秩序」と同義に誤解されている。しかし、何度も言うように「アナーキー」の原義は「支配者のいない状態」である。吉本さんが描き出した集団性はまさに「アナーキー」だと私は思う。
 イシハラによる「日の丸・君が代の強制」をきっかけにいくつかの市民集会に参加するようになったが、どの集会でもアナーキーな集団性が見てとれる。机いすを並べたり片付けたりなど、黙々として集会を手伝う人が必ずいる。「自由な意志」による参加者の集会なのだから、当たり前といえば当たり前の事だが……。

 「自由な意志による思考と行動の自由を尊重」する社会のシステムはどのようなものであるべきだろうか。社会全体を対象とする場合、たくさんの複雑な要素が加わる。小集団で見られるアナーキーな集団性がそのまま社会システムとしても可能であるかどうかは、今の私になんともいえない。しかしその理想的なあり方はイメージできる。

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