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第824回 2007/07/08(日)

「真説・古代史」補充編

万葉集の中にも現れる九州王朝(1)


 それはそれはずっと昔のこと、万葉集を通読したことがある。学者さんの 注釈をたよりに、それでもよく分からないところは読み 飛ばして、文字通りの通読だった。学者さんの注釈には、 何人もの研究者の長年の積み重ねの結果だからと、全幅 の信頼を寄せていた。

 万葉集の学者に限らないが、とくに学会という学閥集団 に籍を置く学者っていうのは案外思考が硬直的だったり 論理が杜撰だったりするものだと、今はそういう認識を 持っている。全幅の信頼を寄せるわけにはいかない。

 これまでのささやかな読書経験の結果、むしろ在野の 研究者の方に問題の本質をつく優れた研究・論文が多い ように思う。古田さんは、私が出合ったそのような研究 者のお一人だ。古田さんがベールを剥いで見せてくれた 「万葉集」の真相は、私がこれっぽちも脳裏に浮かべることの なかった思いがけないものだった。

 まず古田さんは、『万葉集』全体にかかわる不審点を 4点挙げている。

第一、
 「防人歌」で、年代のわかっているものは、すべて八 世紀であり、「七世紀以前」はない。この時期に、「防 人」はいなかったのであろうか。それとも、かれらは 「歌」を作らなかったのであろうか。
 天智・天武・持統などの各天皇の時代、白村江の時代 であるだけに、不審だ。

第二、
 「九州や瀬戸内海領域で(近畿や東国などの人が) 作った歌」はあるけれど、「九州や瀬戸内海領域の人々 が作った歌」は、ほとんどない。少なくとも、そのよう に明記された形では、存在しない。
 では、「九州や瀬戸内海領域に住む人々は、歌を作ら なかった」のであろうか。信じがたい。
 しかし、『万葉集』は、事実、そのような「巨大な空 洞」をかかえこんでいるのである。

第三、
 『万葉集』の冒頭は、「雑歌」の一句ではじまってい る。「雑歌」「雑詩」は、いずれも、中国の『文選』に 出ている分類だ。だが、それは、〝各類の分類名のあと に出現する、「その他の歌」「その他の詩」の用法″だ。 現在の「雑費」などと同じ。およそ会計簿で、「雑費 からはじまる」ことなど、ない。事実、『文選』でも、 他の分類のあとに出てくる分類名なのである。
 「あまりにも明らかな不審には、人は疑問をいだかな い」 - これも、その一例であろう。

第四、
 「白村江の戦」の歌がない。七世紀後半、最大の事件 ともいえよう。四たびにわたった敗戦、その死傷者は 数多かったことであろう。その遺族や恋人は、さらに 多かったことであろう。しかるに、それを示すような 歌が皆目ない。この上ない不審だ。

 「第二」の不審点については『中小路駿逸氏(追手門 学院大学教授)の発見と創唱にもとづく、重大テーマであ る』と、古田さんは創唱者を紹介しているが、 他の三点についてはまともに問題視した学者はかって皆無 だったようだ。

 念のために、「第三」について『古今和歌集』『新古今和歌集』 部立てを調べてみた。前者では「雑歌・雑体」という部が 巻17~巻19に割り当てられている。最後の巻20の部名は 「大歌所御歌・神遊びのうた・東歌・墨滅歌」だが、 これも「雑歌」としていいだろう。後者では同じく全20巻のうち巻16~巻18が「雑歌」で、 巻19「神祇歌」巻20「釈教歌」である。
 当然というべきで、調べるまでもないことだった。

 「第一」・「第四」の不審点は、国学以来の ヤマト王権一元主義というイデオロギー (古田さんは「Tennology」と造語している。) に囚われているものには全く見えないか、見えたとしても その不審を解決できない。

 これらの不審点は、ヤマト王権一元主義を糺して 多元的王朝史観を前提にしたと同じように、『日本国万葉集』 に先行して筑紫を中心とする歌集、『倭国万葉集』が あったとすれば、濃霧がいきなり晴れるように全てが明瞭 に解決される。

 『日本国万葉集』に先行する歌集があったことは 『日本国万葉集』そのものの中に書かれている。

  ある本の歌に曰はく
居明かして君をば待たむぬばたまのわが黒髪に霜はふれども
  右一首、古歌集の中に出づ。


 岩波古典文学大系の頭注は次のように解説している。

『万葉集編纂の材料になった歌集の一。編者も、 もとの体裁も不明。万葉集の巻二・七・九・ 十・十一に見える。巻七・九には古集という名 もあるが同じものであろう。長歌・短歌・旋頭 歌があり、おおむね飛鳥・藤原京時代の作。』

 これ以上の突っ込んだ考察はしない、というよりも Tennologyの立場からは出来ない。しかし、『万葉集』 以前にも歌集があったこととそこに収録されている歌が7 世紀以前のものであることは認めざるを得ない。( にもかかわらず、学校では相変わらず『万葉集』を 日本最古の歌集と教えている。)

 これについて、古田さんは『万葉集』巻七(1246末 尾)の「右の件の歌は、古集中に出づ。」を引用して 次のように論述している。

「現存の『万葉集』は、『新集』であり、その先範 (お手本)としての『古集』があった」と。これは、 疑う余地がない。

 さらに、「『古集』などという歌集名はない。した がって具体的な歌集名をカットし、『古集』という普 通名詞に変えている」という点も、問題だ。

 もっとも、この点については、他の見地も可能だ。 すなわち、「『古集』の実名は、『万葉集』であった。 現在の歌集である『万葉集』の初代、という意味で、 『古集』と記した」という立場だ。この考えに立てば、 一段と、先にわたしののべた、「『倭国万葉集』から 『日本国万葉集』へ」というテーマに近接しよう。もし また、前者(歌集名カット)の立場をとったとしても、 右のテーマと「類同」した問題をふくむこと、変わりは ない。

 さて、「『倭国万葉集』から『日本国万葉集』へ」と いう立場に立てば、先の四つの不審点は次のように解明 される。

(一)
 「倭国万葉集」においては、「七世紀以前」の(年代 の明記された)「防人の歌」が多数、収録されていた。 これに対し、「日本国万葉集(現存のもの)」では、 「八世紀以降」だ。『旧唐書』の「倭国」「日本国」 と、見事に対応する。

(ニ)
 「倭国万葉集」には、九州の人、瀬戸内海領域の人々 の歌が多数収録されていた。しかし、その補篇たる 「日本国万葉集」には、それを欠いている。

(三)
 「倭国万葉集」の「大和篇」が「雑歌」として残され た。そしてそれを出発点(巻一・二)として、巻三以降 が増補され、現存の『万葉集』に至ったのである。

(四)
 「白村江の歌」は、「倭国万葉集」の中の白眉、少なく とも、悲劇の色濃い「名歌」を蔵していたであろう。あと に残された恋人の悲しみも、消えがたい色を残していた であろう。もちろん、九州や瀬戸内海領域の人々が中心 だ。だが、現存の「日本国万葉集」には、それらがない。

 以上だ。従来の「近畿一元史観」からは、解消不可能 の諸疑問が、一個の学問的仮説を投入した途端、一つひ とつ、音をたてて消えてゆくのを見たのであった。

 上の論述を裏づけ補強するものとして、

「白村江の戦(1)」
「白村江の戦(2)」
「白村江の戦(3)」
「白村江の戦(4)」
「ヤマト王朝の成立」

を参照してください。
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