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第821回 2007/07/05(木)

「真説・古代史」補充編

銅鐸圏(東鯷国)の神話(1)


「2 カムヌナカワミミ(綏靖スイゼイ)」から「9 ワカ ヤマトネコヒコオオヒ(開化カイクワ)」までの八代は 「欠史八代」とか「欠史時代」とか言われてきた。 その時代を探る手ががりになる説話が皆無なのだ。「天皇家は 永遠に不滅です。」と天皇教に浸りきっている皇国史観 論者の肝を冷やすほどに格好がつかないたいへんな不祥事 なのだ。記紀はその編纂者たちの「造作」したものとする 戦後史学会にとっても大変困る不祥事だ。「記紀の編纂者 たちはどうしてその八代だけ造作しなかったの?」と問わ れると答えようがないのだから。
 「虚心」になれば、答えはいたって簡単。記録すべきほどの 事件がなかったのだ。ヤマト王権が奈良盆地から打って出て、 東鯷国への侵略を始めたのは「10 ミマキイリビコ イニヱ(崇神シウジン)」の時代からである。それが証拠に 「崇神記」からいきなりさまざまな説話が復活する。 その復活した説話の巻頭を飾るのが「神々の祭祀」と呼ばれ ている次のような説話だ。(岩波文庫版による。)

 この天皇の御世に、役病(えやみ)多(さわ)に起こりて、 人民(たみ)死にて蓋(つ)きむとしき。

 ここに天皇愁ひ歎きたまひて神牀(かむどこ)に坐(ま)し し夜、大物主(おおものぬしの)大神、御夢(みいめ)に顕 (あら)はれて曰(の)りたまひしく、

「こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)を もちて、我が御前(みまへ)を祭らしめたまはば、神の気 (け)起こらず、国安らかに平らぎなむ。」

とのりたまひき。

 ここをもちて駅使(はゆまづかひ)を四方(よも)に班(あか) ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内の美努 (みのの)村にその人を見得て貢進(たてまつ)りき。こ こに天皇、

「汝は誰が子ぞ。」

と問ひたまへば、答へて曰(まを)ししく、

「僕(あ)は大物主大神、陶津耳(すえつみみの)命 の女、活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶して生める子、 名は櫛御方(くしみかたの)命の子、飯肩巣見(いいかたす みの)命の子、建甕槌(たけみかづち)命の子、意富多多泥 古ぞ。」

と白しき。

 ここに天皇大(いた)く歓びて詔りたまひしく、

「天の下平らぎ、人民栄えなむ。」

とのりたまひて、すなはち意富多多泥古命をもちて神主とし て、御諸山に意富美和(おほみわ)の大神の前を拝(いつ) き祭りたまひき。

 また伊迦賀色許男命(いかがしこおの)に 仰せて、天の八十平甍(やそぴらか)を作り、天神地祇 (あまつかみくにつかみ)の社(やしろ)を定め奉(かつ) りたまひき。また字陀の墨坂(すみさか)神に赤色の楯矛 を祭り、また大坂神に墨(くろ)色の楯矛を祭り、また 坂の御尾の神また河の瀬の神に、悉に遺(のこ)し忘るる こと無く幣吊(みてぐら)を奉りたまひき。これによりて 役(えやみ)の気(け)悉に息みて、国家(あめのした) 安らかに平らぎき。


 この説話を古田さんは次のように分析している。


(一)
 崇神以前から、大物主大神を祭ることは禁止されてい た。

(二)
 祭神のとき、流行病が蔓延し、人民が死につづけて いった。

(三)
 人民の中には「なぜ、何のたたりで、こんな災難がつ づくのか」という疑いがおこった。

(四)
 そして「わたしたちは、久しく大物主大神を祭ること が、禁ぜられている。そのためではないかしという声が生 じてきた。

(五)
 これに対して崇神側は、流行病という災害に加えて、 人民の怨嗟の声を恐れ、夢枕の件を「大義名分」 (トリック)として、大物主大神祭祀を解禁しようとした。

(六)
 けれども、そのさいすでに大和盆地の中には、この祭祀を 知る者はいなかった。なぜなら、神武が大和盆地に侵入し たさい、在地の信仰(大物主大神などへの祭祀)を禁圧し、 神主たちを殺し尽くし、追放し尽くしていたからである。

故(かれ)、此(かく)の如く、荒ぶる神等を言向け平和 (やは)し、伏(まつろ)はぬ人等を退け撥(はら)ひ、 畝火の白檮原宮に坐して、天の下を治(し)らしき。(神武記)

とある通りである。

(七)
 したがって崇神側は、あらかじめ、新征服地の河内に、 その該当者(意富多多泥古)を見出した上で、例の夢枕の 件を発表したものと思われる(政治的トリック)。

(八)
 そして一方で彼をして大物主大神を祭らしめ、他方で自 分の配下(伊迦賀色許男命)に自己側の天国(あまくに) 風の祭式土器で、祭礼を行わしめたというのである。

 ここには二種類の神々の体系がある。侵入者側の神々の体系、それは記紀自身のしめして いるように、天照大神を頂点とする神々の体系だ。天国を原点とする神々である。次は、被 侵入者側、つまり東鯷国の中の神々の体系だ。 そこ、少なくとも大和盆地では、大物主大神が頂点となって いたようである。

 「神武(第一代)→崇神(第十代)」の時代は、後者 (被征服者側)の祭礼が大和盆地内では禁止されてきた。 それがこの事件以後許されたのである。「天神」 (征服者側=天皇家)と「地祇」(被征服者側=東鯷国) との併祀の時代が開始されたのである。
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