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第820回 2007/07/03(火)

「真説・古代史」補充編

東鯷国の行政機構


 大日本帝国下の「国史」の授業(たぶん小学校学校高学年) では歴代天皇の名前(漢風諡号)を丸暗記させられたという。 覚えられなかったり間違えたりすると教師にぶん殴られた という話しも聞いたことがある。これは最悪の銀行型教育、 というより教育なんてものではなくて、食いたくもない偽装 ミンチを無理やり口に押し込まれるような拷問だ。歴代天皇の 名前なぞというようなどうでもよい事柄は必要なときに調べ ればよいのだ。もっともいまでも学校でも、どうでもよいよ うなものを丸暗記させるような授業をやる教師がいるけどね。

(以下は「第353回 2005年8月6日」の記事 『「記・紀」の中の東鯷国』 を書き換えて再録したものです。)

 これからの話しには聞きなれない初期天皇名がたくさん出 てくる。時代も前後して分かりにくい。そこで、古田さんが 論証のために「記紀」から引用している文章を、その前後関 係を分かりやすくするため、時代順位並べてみる。天皇名の 前の数字は「歴代数」を表す。

1 カムヤマトイワレヒコ(神武ジンム)
 (d)遂に菟田(うだ)の下県に達す。
 (e)此の両人は、菟田のの魁帥(ひとごのかみ)なる者なり。(『日本書紀』神武紀)

2 カムヌナカワミミ(綏靖スイゼイ)
 (a)此の天皇、師木県主の祖、河俣毘売(かはまたびめ) を娶(めと)して生める御子……。(『古事記』綏靖記)

3 シキツヒコタマテミ(安寧アンネイ)  (b)此の天皇、河俣毘売の兄、県主波延(はえ)の女、阿久斗 比亮を娶して生める御子……。(『古事記』安寧記)

4 オホヤマトヒコスキトモ(懿徳イトク)
5 ミマツホコカヱシネ(孝昭カウセウ)
6 ヤマトタラヒコクニオシヒト(孝安カウアン)
7 オホヤマトネコヒコフトニ(孝霊カウレイ)
8 オホヤマトネコヒコクニクル(孝元カウグヱン)

9 ワカヤマトネコヒコオオヒ(開化カイクワ)
(c)此の天皇、旦波(たには)の大県主、名は由碁理 (ゆごり)の女、竹野比売を要して生める御子……。(『古事記』開化記)

10 ミマキイリビコイニヱ(崇神シウジン)
11 イクメイリビコイサチ(垂仁スイニン)
12 オホタラシヒコオシロワケ(景行ケイカウ)

13 ワカタラシヒコ(成務セイム)
 (1)故(かれ)、建内宿補を大臣と為し、大国・小国の国造 を定め賜ひ、亦国国の堺、及び大県・小県の県主定め賜ひき。(『古事記』成務記)
 (2)五年秋九月、諸国に令し、国郡を以て造長を立て、 県邑に稲置を置く。並びに盾矛を賜ひ、以て表と為す。 則ち山河を隔てて国県を 分ち、阡陌に随ひて以て邑里を定む。 (『日本書紀』成務紀)

 「成務紀」によると「県」や「県主」といった行政単位 や称号が、天皇家によって定められたとされている。

「記紀」の表記ルールでは「定め(賜ひ)き」とある場合、 それは補修(改正や改定)ではなく創設を意味する。

 ところが成務時代以前の神武・綏靖・安寧・開化の時代の記事にも 「県」や「県主」の記事が頻出している。これはどういうわけか。

 この矛盾に悩みに悩んだ末、本居宣長は次のような迷答 をあみだした。(『古事記伝』)

『かゝれば県(あがた)と云は、もと御上田(ミアガタ)よ り起(オコ)れる名にて、又其に准(ナゾラ)へて、諸国 (クニグニ)にある、朝廷の御料(メシタマ)ふ地をも云フ、 此(こゝ)に大県小県とあるは是なり。』

 つまり、「県」とは「御県の略」であって、“天皇の直轄 地”だと言い、その上で次のように矛盾を「怪凍」する。


『さて国ノ造(みやつこ)と云物を、此ノ時初めて定メ賜 ふには非ず。是レより前(さき)にも有りつれども、此 ノ時に更(サラ)に広く多く定め賜へりしなるべし。』


『さて此(コゝ)に県主を定メ賜ふとあるも、初めて此ノ職 (ツカサ)を置(オカ)れたりとには非ず、かの国ノ造を 定メ賜へると同じことなり。』

 つまり、「定め(賜ひ)き」を制度を補修(改正や改定) したという意味に解した。

 この宣長の「怪凍」を古田さんは次のように解凍している。


第一、
 『古事記』の他の個所では、「定め(賜ひ)き」とある 場合、補修の意ではない。また宣長も、そのように解して いない。

『又木梨之軽太子の御名代と為て軽部を定め、大后の御名代 と為て、刑部を定め……(『古事記』允恭記)

 しかるに、ここだけ、こちらの都合で意味を改変するのは、 不当だ。

第二、
 もしこれが「補修記事」なら、創設記事がどこにもなく、 いきなり補修記事というのは不可解だ。

第三、
「補修」ならば、この回にとどまらず、何回もあったであろ う。しかるに、ここだけ補修記事というのでは、おかしい。

 以上だ。宣長の長広舌も、新たな矛盾の馬脚を次々と露呈 しているのである。


 では、どのように考えるのが理にかなっているか。 真の解答は次のようになるだろう。

 (1)(2)の記事は天皇家による創設の記事である。

 従ってそれ以前(a)~(e)の「県」や「県主」は、当然 天皇家任命下のものではない。天皇家以前の、あるいは 天皇家以外の行政単位であり、称号名である。

 以上から初期ヤマト王権のあり様について次のように 言うことができる。

「1 神武」→「9 開化」の時代
 西方からの侵略軍団は大和盆地の一画に小拠点を持つこと に成功したが、そこに蟠踞(ばんきょ)したにすぎなかった。 とても行政単位やその長の称号名を独自に創設できるような 分際ではなかったのだ。

「10 崇神」・「11 垂仁」の時代
 大和盆地外への侵略戦争を開始し、支配地域の拡大に成功 した。銅鐸圏(東鯷国)の中枢部を打倒し、その遺産 を略奪した。

「12 景行」の時代
 ヤマト王権は拡大・安定期を経て、ようやく王朝 (正確には、九州王朝の分流王朝)としての資格と 実質をそなえてきた。

「13 成務時代」
 ヤマト王権独自の行政単位や称号名を確定するように なったが、それらの多くは前王朝(東鯷国)の行政 単位名(県)や称号名(県主)などを継承したものであった。

 古田さんは次のように締めくくっている


 以上の論定を裏づけるもの、それは次の二点だ。

(A)
 先にのべたように『古事記』のしめすところ「神武~開化 間」は、大和盆地内の支配にとどまっていた。しかるに、上の (c)では、大和盆地外の豪族として「旦波の大県主」の名があ る。この称号が天皇家任命下の称号であるべき道理がない。

(B)『日本書紀』が語る「革命の論理」、「革命」前の覆され た王朝には、行政単位も、その長の称号名もない、そんなこと が考えられようか。神武の前王朝の存在を自明とした『書紀』 の編者は、また天皇家以前の、また以外の、行政単位やその 長の称号名の存在を自明としていた。それゆえ、平然と成務 紀に、天皇家による創設記事をおきえたのだ。

 このように考えることが『書紀』という文献の事実に則す べき、唯一の見地ではあるまいか。
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