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第816回 2007/06/28(木)

「真説・古代史」補充編

銅鐸文化圏の中枢(都)はどこか。


青銅器分布
(第一学習社「新選日本史図表」より)

 上の図の右下の解説文は次のように書かれている。

『弥生中期の銅剣・銅鉾・銅戈は朝鮮製の細身の実用武器 であるが,後期には,刃が扁平で大型化し実用的でない 国産品が現われる。銅鐸の原型は一種の楽器であるが, これも大型化し,本来の機能を失っていく。これらの青 銅器は共同体の神聖な祭器であったと考えられる。

 強調(赤字)部分の文は、あたかも弥生後期にはまだ「国家」は なかったと言っているようだ。特に銅鐸については 「銅鐸は共同体の神聖な祭器」というのが定説になっている。 つまり、古墳期以後のヤマト王権が日本における最初の国家 であって、それ以前には近畿地方には「国家」はなかったと いうわけだ。ここでもヤマト王権一元主義というイデオロ ギーが大きな顔をしている。

 『銅鐸とは、村々で行われた祭礼のさいの祭器であり、それはい まだ国家の成立以前の社会に属する。』(小林行雄氏の立論) というのが考古学界の変わらぬ定説である。私も高校時代(もう半世紀 も前になる。)にそのように教えられたのを記憶している。

 大阪万博(1970年)以前なら小林理論を定説扱いしてきたのも 致し方ない面もあるが、万博以後はこの定説は非としなければな らない、と古田さんは言う。

 万博以前、銅鐸の鋳型は赤穂と姫路でその小破片が見 出されていただけだった。そこは近畿の中心地帯ではないし、 また西は広島県から東は静岡県に及ぶ銅鐸分布の中枢地と言 うわけにもいかない。このように貧弱な鋳型分布から「銅鐸は 村々の祭器であって、特定の権力中心の製作物ではない。」 という小林理論が定説となった。

 しかし、万博に向けての大阪府茨木市の南茨木駅(阪急) 、駅前の南茨木マンション、その隣接のアパートなどの工事で、 計九個の完形銅鐸鋳型が出土した。さらに勾玉鋳型等も見 出された。この東奈良での発見後、さらに大和の唐古遺跡 でも銅鐸鋳型の発見があり、東奈良に次ぐ姿をしめしてい た。また姫路や東大阪からも出土している。次の図はその 銅鐸鋳型の分布図である。

銅鐸分布3


 銅鐸は散在する個々の共同体の単なる祭器ではなく、 生産中心と副中心をもつ統一的なシンボルという意味を 示している。古田さんは、「名古屋・浜名湖方面にも、三 遠式銅鐸の鋳型出土が期待される」と付け加えている。

 上の2枚の分布図から、古田さんは次のように論述している。

 (銅鐸文化圏の)中心は、東奈良遺跡(摂津)、副中心が 唐古遺跡(大和)だ。その他に、姫路・赤穂と東大阪、など がある。東大阪は、文字通り河内湾岸に当っている。

 右のような鋳型分布図は、奇しくも、あの銅矛・銅戈・銅剣 の鋳型分布図と相似したタイプをしめしている。そこでは、 博多湾岸が中心であり、糸島郡が副中心であった。そして 両翼のように、東は古賀、岡垣、西は夜須、東背振、佐賀市 と分布している。このような相似は何を意味するのだろうか。

 わたしは第一巻でのべた。「中国史書にいう倭国とは、博 多湾岸を中心とする銅矛・銅戈・銅剣の分布圏の領域を指す」 と。

 このテーマからすれば、倭国と同一の鋳型分布をしめす銅 鐸圏、それも当然、倭国と並ぶ日本列島内に存在した国家、 そのように考えなければならぬ。両者の間には、瀬戸内海領 域の平剣圏が横たわり、東西両域の、いわば混合圏をなして いるけれど、何といっても、先の両圏の並存がきわ立ってい る。

 わたしはいつも不思議に思う。従来の「邪馬台国」論議の 中で、なぜ「倭国の都」(邪馬壹国、いわゆる邪馬台国) =博多湾岸説が考古学者の中から出されなかったかを。 なぜなら、いわゆる弥生後期(三世紀をふくむ)は銅器を 花形とする文明の時代だ。その中心は二つ。西では、博多 湾岸、東では摂津東域(東奈良遺跡)なのであるから。 この両者のうち、中国に近いのは前者だ。とすれば、中国 の帯方郡(朝鮮半島)に使者を派遣したのは前者。博多湾 岸が倭国の首都である。 - このようにのべる考古学者 が現われなかったのはなぜか。また一般の古代史論者の中か らも、このように率直な議論が出されなかったのは、なぜか。 わたしには重ねて不審である。

(中略)

 以上のように、万博以前と万博以後では、全く鋳型分 布認識の量と質を異にした。異にしたにもかかわらず、 解説理論だけは同一。これは不可解だ。観念に立つイデ オロギー論ならば、さもあらばあれ、徹頭徹尾物に立つ べき考古学者の理論が、これではおかしい。わたしたちは そのように考えて果して不当だろうか。

 鋳型の出土分布という考古学的事実も待つまでもなく、 イデオロギーから自由な「常識」は、北九州(銅矛文化圏) はもとより、近畿地方(銅鐸文化圏)にもれっきとした 「国家」が形成されていたことを疑わないだろう。 この点についても古田さんの論述を聞いてみよう。

 実は、鋳型の出土分布を持ってはじめて判明する、その ようなものではなかった。なぜなら、あの銅鐸という実物、 そのものがわたしたちに雄弁に告げていたところである。

 というのは、あの古器物は、わが日本列島抜群の器物だ。 元明朝の官人たちがすでに鋭く看破したように、これは 「天皇家以前に、別個の制度をもつ廷室があり、その廷室下 の儀礼として、この楽器は製作された」。そのように考えざ るをえない「物」だ。

 もしこれがそのような性格の「物」でないとしたら、この 日本列島の弥生期には、およそ「廷室」も、「国家」も存在 しなかった。そのように考えるほかはない。三世紀の倭国など、 雲散霧消するほかない、とすらいえよう。

 なぜなら、これに比肩すべき「物」として、あの「銅矛・ 銅戈・銅剣」を対比してみよう。後者より、はるかに前者 (銅鐸)が上、そう断じうるものとわたしには思われる。

 何が上か。いわく銅の量、いわく生産技術、いわくデザイン、いわく 全体としての威容、いわく芸術品としての価値、これらの点、 前者は後者に対して勝りこそすれ、劣りはせぬ。

 静かにこの古器物を見つめてみよう。そこには、これを 生産した人たちの技術と魂が塗りこめられている。それ以上 に、これを生んだ当代文明の充足した精神の輝きが、深く濃 く底光りしている。ここには、深く自足した古代文明の面影 が疑いえず、存在していた、その証(あかし)が宿っている。

 これが国家以前の、素朴な社会の産物でもしあったとした なら、西なる「銅矛・銅戈・銅剣圏」など、当然それと運命 を共にしなければならぬであろう。たとえ、一は平和的、 他は好戦的(武器をシンボルとする)という、ちがいこそあ ろうけれども、後者もまた国家以前、そのように断ずるほか はない。つまり〝三世紀日本列島に国家なし″。この帰結を 避けることができないのである。
 ではこの銅鐸文化圏に栄えた国家の名はなんだったのか。 その名は東鯷国(トウテイコク)。ヤマト王権以前に 東鯷国と呼ばれる国家があった。東鯷国については すでに 「会稽海外、東鯷人有り!」 で取り上げた。
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 コメント
この記事へのコメント
銅鐸と銅矛の文化圏の違いは重要ですね
荒神谷遺跡(島根県)を見た時に痛感しました。この謎をきちんと説明するには九州王朝説によるしか無いと思います。

asahi.com:「銅鐸リサイクル」の跡、国内2例目 奈良で破片や鋳型 - 関西
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200804300075.html
2008/05/01(木) 05:19 | URL | ゴンベイ #eBcs6aYE[ 編集]
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