2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第814回 2007/06/25(月)

今日の話題

「君が代解雇裁判」オソマツ判決の詭弁(2)

 偽装牛肉なんていう生易しいものではない。家畜の残飯のよ うなおぞましいゴッタ肉を加工していたミート社の田中なんとか 社長が「消費者も安いものばかりを求めるから」と、とんでも ない自己正当化をかましている。(25日付「東京新聞」)

 この物言いに隠れている論理を分析すると

①「消費者は安いものを求めている。」
②「偽装牛肉は安い」
従って
③「消費者は偽装牛肉を求めている。」

 抽象化すると

①「AはBを求めている。」
②「CはBである。」
従って
③「AはCを求めている。」

 ①においても②においても「B」は正確には「あるB」で あり、命題は「特称文」である。なのに、①の「B」を 「全てのB」とすり替えている。これも「部分より全体に およぼす誤り」という詭弁である。

 国会では連日、権力亡者・金権亡者の政治屋どもが 詭弁・強弁を炸裂しまくっている。裁判官も詭弁判決を垂れ 流して恥じない。この国は詭弁・強弁に導かれてどこへ行こ うとしているのか。もちろん腐臭プンプンの「美しい国へ」 さ。

 さて、前回の続き。10.23通達が生徒の思想・良心をも侵害 しているという原告側の訴えにたいしてオソマツ判決文は 言う。

 本件職務命令は,本件卒業式において全原告らを含めた 教職員が国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することを命 ずることに尽き,直接的に生徒に対して起立等を求めるも のではない。また,学校教育の現場において一定の権威的 地位を有する教員が,国旗に向かって起立し,国歌を斉唱 することは,国旗・国歌条項に沿った指導を実践する教職 員が生徒に範となる行動を示すものと理解されるところ, このような行動自体が生徒の内心に対する一定の働きかけ となることは否定できないものの,

それは正に行動の手本を示すものであって,教育の実践の 面において,このような生徒の内心に対する一定程度の働き かけを伴うことは不可避であるから,これを直ちに強制と 同一視し得ないことからすると,

本件職務命令が生徒の思想及び良心の自由を侵害するものと はいえない。

 一段落で書かれている文章を三段落に分けて転載した。これも 「相殺法」という詭弁である。第一段で「肯定」し、 第二段で一般論にすり替え(屁理屈)、第三段で「否定」して いる。

 屁理屈の部分について付け加える。

 「それは正に行動の手本を示すもの」と言うときの「手本」 の中身が問題だ。思想・良心の自由を踏みにじる憲法違反の 通達であってもしゃちほこばって面従腹背を示すのが「手本」 だと言っている。これじゃまるで「センセはウソのはじまり」 だな。

 教育の実践においては、学習意義の理解を求めたり学習 意欲を喚起するなど学習の動機付けが必要だ。こころある 教師なら生徒を頭ごなしの強制などしない。教材を練り上 げて楽しく分かりやすい授業を創造することによって生徒 の内心に働きかける。そういう意味でなら「内心に対する 一定程度の働きかけを伴うことは不可避である」。しかし、 こうした教育の営みは、憲法違反の通達に面従腹背のお手 本を示すことを通して生徒の内心に働きかける(強制的圧力 を加える)こととはまるで次元が違う。これは「論点すり 替え」の詭弁である。

 君が代斉唱の前に生徒(や保護者)に思想・良心の自由 侵害する(強制する)ものではないことを説明していた学校も あったと聞くが、これも都教委は禁止した。都教委は 「授業をやる前に授業を聞いても聞かなくてもよいと言うよう なものだ。」というようなトンチンカンな屁理屈を言ってい るそうだ。

 次に、「教員の教育の自由」についてのくだりではこんな ことを言っている。

 卒業式が,高等学校における「教育課程」の一部である 特別活動として実施されるものではあるが,教科等における 授業と異なり,学年及び学級の区別なく全校をあげて実施さ れるもので,全卒業生が参加するほか,保護者や種々の学校 関係者の協力を得て行う儀式であり,事柄の性格上,本来 的に各教員において個別に又は独自にこれを行うことが困難, 不適当な性格のものであることを勘案すると,本件職務命令 が全原告らの教育の自由を侵害するものとはいえない。 したがって,本件職務命令が憲法23条,26条1項等が保障す る教員の教育の自由等の侵害になるということはできない。

 先ほどは教育一般の実践における教師の生徒に対する 働きかけと儀式における強制的働きかけを同一視しておきながら、 こんどは卒業式は「教科等における授業と異な」ることを 論拠にしている。こういうのを「ご都合主義」という。

 卒業式・入学式や文化祭・体育祭などは「事柄の性格上, 本来的に各教員において個別に又は独自にこれを行うことが 困難,不適当な性格のものである」から、従来から各学校ごと に、生徒の要望を踏まえて職員会議で議論をし、生徒・教職 員合意の下でこれらの行事を創出してきた。

 これに対してオソマツ判決は、「事柄の性格上, 本来的に各教員において個別に又は独自にこれを行うことが 困難,不適当な性格のものである」から職務命令で強制しても 「教員の教育の自由等の侵害」にはならないと言っている。 全都立校一律に全く同一の儀式を、処分をちらつかせて強制 することが「教員の教育の自由等の侵害」でなくて一体何 なのだ。

 このようなオソマツな思考の根底にオソマツな教育観が 透けて見えている。裁判官になるほどのものは、さぞかし 優秀な成績でいわゆる一流高校・一流大学と出世街道を 馳せぬけてきたのだろう。そのような人の中には、もちろん、 創造的な人のいる。しかし、単に記憶量が多く、その 記憶をできるだけ早く引き出すことにたけているだけの秀才 、つまり銀行型教育の秀才が圧倒的多数なのではないだろう か。高級官僚たちの在り様を見ているとそう思える。 銀行型教育の秀才の成れの果ては銀行型教育しか教育を 知らない。

 私は鈍才だけれども知的羞恥心はある。詭弁と知ってい て詭弁を弄するほど知的退廃はしていない。

 あっ、もしかすると銀行型教育の秀才は詭弁を詭弁と 認識していないのかもしれない。つまり、記憶量は並外 れているいるが、論理的な思考力に欠陥があるのかも知 れないな。
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