2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第813回 2007/06/22(金)

今日の話題

反「日の丸・君が代の強制」訴訟の意義

 昨日(6月21日)の東京「君が代」裁判で私は傍聴券抽 選待ちの行列にウヨさんを4名目撃しました。一人は30歳代の 普通の明るいスーツを着た角刈りでずんぐりとした体格の兄 貴分らしい男。あとの三人は20代前半ぐらいの青年で、着 慣れない黒いスーツに身を包み額や眉にそりを入れて目を いからしていた。少しおくれて40代ぐらいのごく普通の紳士 が二人加わった。先に来ていたウヨさんとは目礼程度の挨拶を しただけで、その二人は本を読んだり手帳をめくったりしてい た。さしずめ顧問弁護士といったところだろうか。待ち時間が 退屈なのでつまらぬ観察をしてしまった。その人たちが傍聴券を 手に入れたかどうかは詳らかではない。

 私は初めて抽選に当たった。税金で雇われている被告側弁護団 を観察してやろうと、被告側の一番前に座った。残念なことに 、邪悪な番犬ツラをしているわけではなかった。

 今日も口頭弁論をしたのは原告側だけだった。被告 側は、口頭弁論などしなくとも裁判官は珍タロウの意に沿う 判決を用意しているはずだと安心しているのかなあと、これは 2.27最高栽オソマツ判決や昨日の東京地裁オソマツ判決 (明日取り上げる予定です。)で疑心暗鬼になっている私の 心の片隅によぎった疑念だった。

 一連の反「日の丸・君が代の強制」裁判(10件くらいあるだろ うか。原告の総数は860名以上になるという。)の意義の重要さは あまり広くしられていないように思う。まずマスコミにその認識が ない。だからマスコミは判決が出されたときだけ、その事実を 報道するだけで深い追求はしない。(9.21難波判決のときは 例外で大きく取り上げた。)従って一般の人たちの関心事と はならないでいる。

 今回の原告側の弁論は、オソマツ判決を批判しながら、この裁判の 意義について裁判官の憲法の番人としての良心に強く訴えるもの となっていた。その弁論を私はメモしなかったので(オッチョコチョイな ことに筆記用具を忘れていた。)、それに変えて、原告側傍聴者に 配布された『傍聴ハンドブック』から原告側訴状冒頭の「本件 訴訟の概要と意義」の要約を掲載することにしよう。


 本件では子どもの成長発達=学習権(憲法26条)を豊かに 保障するために不可欠な教師の教育の自由(憲法23条,改定 前教育基本法10条)とともに,とりわけ原告らの思想・良心 ・信教の自由(憲法19条,20条)が最も基本的な問題として 取上げられている。

 思想・良心・信教の自由は,自らの行為や態度を自律的に 決定する個人にとっての最高の決定基準であり,個人の尊厳 に直結する自由なのであり,民主主義の根幹をなすものと言 わなければならない。もしこの決定を他者が行ない,自分は ただそれに従うだけということになれば,もはや「自由かつ 独立の人格」(1976年5月21日の旭川学力テスト事件に関する 最高裁大法廷判決)とは言えない。したがって,公立学校の 教師についても,当然にこれらの自由,すなわち個人の尊厳 が保護され,尊重されなければならない。

 ことに今日の学校には,自由と民主主義への教育が要請さ れる。改定前の教育基本法前文はもちろんのこと,改定後の 同法前文においても,「憲法の精神にのっとり,わが国の未 来を切り拓く教育」を謳っている。ここで「憲法の精神にの っとり」とあるのは,教育を通じて憲法的価値を子どもに伝 えることを意味しており,したがって憲法13条にのっとり 「すべて国民は個人として尊重される」ことを教育の場で実 現すること,別言すれば個人の尊厳を重視する教育を行なう ことを要請したものにほかならない。

 教師の思想・良心・信教の自由が,とりわけ卒業式などの 儀式の際のように子どもたちの面前で侵害され,個人の尊厳 が蹂躙されるようでは,自由と民主主義への教育が不可能と なることは明らかである。したがって,教師に対しても不起 立・不斉唱の自由が認められなければならない。

 我が国ではサンフランシスコ講和条約以降,教育の国家統 制が強化され,とくに東京都では10・23通達以降,卒業式等 における日の丸・君が代の強制により教師の教育の自由が全 面的に剥奪され,とりわけ教師の思想・良心・信教の自由ま でが侵害されるに至っている。学校における日の丸・君が代 の強制は,国民全体に対する強制のいわば尖兵に位置づけら れているというほかはない。もし当局が学校における強制に 成功すれば,それを突破口として国民全体への強制が勢いを 増すことになる。その意味で,教師の思想・良心・信教の自 由を護る本件訴訟は,格段にその社会的意義を高めている。

 したがって,教師の教育の自由,及びとりわけ教師の思想 ・良心・信教の自由を真に我が国に定着させることが,その ままに国民全体のこれらの精神の自由を確立することにつな がるのである。ここに,この訴訟の最大の意義がある。

 折りしも国会では、教育基本法改悪に続いて、教育三法 (学校教育法改悪・地方教育行政法・教員免許法)の改悪 も強行採決された。その主な問題点を整理すると

①義務教育の目標として「国と郷土を愛する態度」を明記
 国家への忠誠・奉仕の強要へとつながるだろう。

②副校長、主幹教諭、指導教諭の新設
 学校を上意下達のピラミット型組織に改変し、学校への支配・管理 の強化を目指している。

③緊急時における文部科学相への指示権の付与
 教育の国家統制への道を大きく開いた。

④終身制の教員免許を有効期間10年とする免許更新制
 真の教育・課題提起型教育を目指す教師が排除され、銀行 型ヒラメ教師ばかりになるだろう。

(銀行型教育と課題提起型教育については次の記事を参照してください。)

銀行型教育
課題提起型教育

 この国の支配階級が教育をどうしようとしているのかが、 いよいよ明らかになってきた。しかし、これらの悪法は 実践において無効化することもできるし、再改正することも できる。そのためには最後の砦、現憲法を実効あるものと しなければならない。今こそ憲法を生かす実践が望まれる。 それが全ての大前提になる。一連の反「日の丸・君が代の 強制」裁判の意義は、まさにここにある。

 「戦争は教室から始まる。」
 肝に銘じるべきだろう。
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