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第809回 2007/06/18(月)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:「思邦歌」古田さんの解読


 岩波版日本古典文学大系の
(1)「古事記」
(2)「日本書紀」
(3)「古代歌謡集」

① 愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も

② 大和は 國のま秀らま
  畳づく 青垣山
  籠れる、大和しうるわし

③ 命の 全けむ人は
  畳薦 平群の山の
  白橿が枝を 髻華に挿せ この子

 古田さんはこの「思邦歌」をどのように解読して いるだろうか。

 ①はどこで歌われたとしても通用する内容であり、 問題となる点はない。

 ②はどうだろうか。問題は2点ある。
 「夜摩苔(ヤマト)」(原文)に対し、(1)(2)は「倭」、 (3)は「大和」と表記しているが、いずれもためらわず 近畿の「大和」と解して疑わない。

 「ヤマト」という地名は他にもある。筑後の 「山門郡」は「大和」と邪馬壹国の所在をめぐって空しい 争いをしているので有名な所だ。しかし、「ヤマト」もう一つ 筑前にもある。中・近世には、福岡市の西、旧早良(さわら) 郡の地に「山門郷」があった。現在、地下鉄に「下山門」と いう駅名がある。室見川の下流の姪の浜近辺であり、あの 「弥生の黄金地帯」の真っ只中である。

 〝中・近世文書”の中にある地名がどこまでさかのぼれ るかという問題や、「苔」(乙類)と「門」(甲類)の上 代音韻上の問題にも、古田さんは目配りしているが、 「この点は、一応保留しておこう」として論を進めている。 つまり、「ヤマト」を近畿・筑後・筑前のどこに比定する のが妥当かを判断するためには、表現全体の中で考えるべ きだという主旨である。

 古田さんは次に「マホラマ」を取り上げる。(2)は 卜部兼右本(鎌倉時代から伝わるとされている)を底本 としていて、「マホラマ」の原文は「摩倍邏摩」となって いる。

古田さんによると、熱田本(14世紀)・北野本(14世紀)では、 「摩倍邏摩」であり、後代写本の伊勢本(15世紀)・内閣文 庫本(16~7世紀)では「摩保邏摩」となっているという。 つまり「14~5世紀」の間の時期に、「倍→保」という「原文 改定」が行われている。江戸時代の国学以降、後代写本 の「摩保邏摩」を使って「マホラマ」と読んでいる。そして 「秀」「場」といったイメージで理解し、「近畿大和こそ、 日本国の中心の秀れた地」の意味に解釈してきたのであった。

 「摩保邏摩」なら「マホラマ」と読むことになるが、 「摩倍邏摩」を「マホラマ」と読むのは無理、これは 「マヘラマ」だ。

 前回紹介したように(2)の(3)の日本書紀版歌謡も 「摩倍邏摩」をも「マホラマ」と読んでいて、その意味を 「ホ」=「秀」一字だけ負わせている。しかし、その解釈 は「改定」以前の原文「マヘラマ」には通用しない。古田 さんは改定」以前の原文「マヘラマ」の意味を探ることに なる。

 先頭の「マ」は「真」であり、美称の接頭語。「へラマ」 は鳥類の脇の下の毛。『つまり、鳥の心臓の近くだけれど、 「脇」にある、柔らかい毛を呼ぶ称だ。決して「中心」と いう意味ではない』。古田さんはその解読の根拠を挙げて いる。

〔倭名類聚抄、羽族部、鳥体、倍羅磨〕日本私記云、倍羅麼、 師説、鳥乃和岐乃之多乃介乎為倍羅麼也、云云、今謂俣呂 羽、訛化。(諸橋、『大漢和辞典』)

 これによると、古事記の「本呂婆」=「ホロバ」は「へラマ」 の「訛化」であり、理路は一貫している。

 次は③の歌の意味。これは古田さんの文章をそのまま引用する。

 ここでは、「平群(へぐり)」の地が、この遠征の帰着点 である、として歌われている。これは明白だ。その上、そこ は「白橿が枝」を挿す、といった、神聖なる儀礼の行わるべ き聖地のように見なして、歌われている。

 確かに、近畿大和に「平群」は、ある。西北辺、大阪府に 近い位置。大和の中では、かなり辺鄙(へんぴ)な、はしっ こ。ここに橿原や三輪山や飛鳥のように、「中心的聖地」が あった、という形跡は見えぬ。その上、「景行天皇」がこの 地から出発した、などという記載も、一切存在しない。それ なのに、なぜ、「大遠征の終着地」が「大和の平群」なので あろうか。不審だ。従来の国学者も、言語学者も、歴史学者 も、解き明かしえなかった。

 ところが、筑紫の場合。これが解ける。あの吉武高木こそ、 「平群」の地なのだ。この点は、『和名抄』にも、明記され、 中・近世にも、平群郷が存在した。あの山門郷と並んで。

 その「筑前の平群」が、先にのべたように、「最古の三種 の宝物(神器)」の出土墓域だった。「二種」や「一種」が それをとり巻いていた。そしてその東、50メートルのところ、 そこには「宮殿群」の跡が出土した。

 今は、地下に〝眠って″いた「三種の宝物」も、その被葬 者(墓の中の主人公)の生前には、この宮殿の中で、新しき 権力のシンボルとして、この「三種の宝物」がかかげられ、 被支配者たち、各層の群衆は、これを仰ぎ見ていた、あるい は見させられていたこと、およそ疑いえぬところではあるま いか。

 「新しき」といったのは、「天孫降臨」という名の侵入と 支配の樹立、その直後の時代だからである。古き時代とは、 板付の縄文・弥生前期水田の文明であった。

 この「新しき主人公」が没し、木棺に埋葬された。これが 吉武高木の中心墓だ。そして隣の「宮殿」は、「神殿」とな り、「平群の地」は、倭国の中心をなす、輝ける聖地となっ た。九州王朝の聖地だ。倭王の中心の聖地である。

 このように、歴史への認識を確かにしたとき、あの「景行 天皇」、実は「前つ君」と呼ばれる、倭国の王者が九州の 東南、日向の国で歌ったところは、直裁に理解できる。

 大遠征の終了を、神前に報告すべきところ、それは平群な る、吉武高木の聖地であった。その創業の王、倭国の初代王 の墓前に参り、その王が筑前の一角に印した「新権力の樹立」 が、今回の九州一円の平定によって、磐石の基礎を築きえた こと、それを報告するのである。そしてその王が生前、居し たもうた宮殿、今は神殿の前で、「大遠征終結」の宣言を行 う。その日を、彼は夢見ているのである。詩人にして英雄、 その時代である。

 この筑紫の地は、もと「白日別」と呼ばれた〈『古事記』 国生み神話〉。ここの「白橿」も、これと同類の「白」では あるまいか(今、福岡市に白木原がある)。

 このように、室見川中流の平群の地が、この第三歌の対象 であるとするとき、第二歌の謎も解けよう。

 室見川下流の「やまと」(山門郷)の地は、この平群と いう中心地(心臓部)の「脇」に当る、よき地だ、といって いるのである。不審はない。おそらく、出発のとき、平群の 聖地に詣でてより、河口の「やまと」の地から、九州全土平 定をめざす遠征軍は、自己の「侵略」の拡大のため、出発し たのではあるまいか。その日のことを、筑前の王者は、人々 に思い出させようとしているのである。遠征に疲れた兵士た ちの士気を鼓舞しようとしたのだ。

 以上のように、「大和の平群」では、皆目意味不明だった ところが、いったん「筑紫の平群」を原点にするとき、つぎ つぎに疑点が解消してゆく、その「解読の醍醐味」を、わた しはかみしめていたのである。

 この研究経験は示した。わたしが本書で行った「景行天皇 の九州大遠征」分析が、正当であった、という事実を、それ はまた、示している。〝『日本書紀』の記事は、九州王朝の 史実(の歴史記載)からの転用(盗用)をふくむ″。この命 題が偽りでなかったことを証明しているのである。すなわち、 「九州王朝」という、歴史上の命題の正当性、それを裏づけ ているのである。
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