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第804回 2007/06/13(水)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:ニニギの山陵はどこか


 古田さんの記紀神話の解読は遅くとも1975年ごろにはほと んど完成していた。そしてその理論の正当性は、既にそれま でに明らかになっていた考古学上の事実が裏打ちしていた。 1992年の吉武高木遺跡での宮殿群跡の発見は、古田理論の 正当性をさらに決定的なものとした。

 吉武高木遺跡の宮殿群跡は何を物語っているのか。それを 読み取るための関連事項をまとめてみる。

 古田さんの解読によれば

天孫降臨の地

『竺紫(ちくし)の日向(ヒナタ)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ) に天降りましき』(古事記)
すなわち
『博多湾岸と糸島郡との間、高祖山を中心とする連山』
である。この比定地域の地図を掲載しておこう。

降臨の地



 次にニニギの山稜の比定。

「筑紫の日向の可愛(此を埃と言ふ。)之山陵に葬る」(日本書紀)

 森教授はこの一文を引用して、はなから日向(ヒュウガ)= 宮崎県と考え、「可愛」という地の検討はしようともしない。 多分、宮崎県にも熊本県にもそれらしい地名が見当たらない ので知らん振りをしたのだろう。古田さんの解読を読んでみ よう。上の地図を見ながら読むとよく納得できよう。


 「日向」は「ひなた」。高祖山連峯に日向山・日向峠があ り、日向川が東流して室見川に合流している。その合流点に 吉武高木がある。平群の地である。

 「可愛」は「かはあひ」。〝川合い″の義であろう。「向 う町」を「向日町」(京都府。現在は市)、新堀(にひほり)」 を「日暮里(にっぽり)」(東京都)と書くような、佳字表 記である(書経・大禹謨、左氏・襄王等に「可愛(愛す可 し。)」の用例がある。従来「可愛」「埃」を「え」と読ん できたのは、非。「愛」「埃」ともに、「あい」である。 佳字表記の原則は、〝音が似ていて、佳字であること″だ。 同一音の必要はない)。

 ここでは、室見川と日向川との合流点であるから、「日向 の川合ひ」だ。

 「山陵」の「山」が、今年(1993)の二月に解けた。吉備 (岡山県)の造山・作山古墳は、いずれも「つくりやま」と 読む。すなわち、〝人工造成の古墳″を「やま」と呼んでい るのである。

 一方、吉武高木の弥生墓は、現在は水田の下から治水工事 のさいに出現した。けれども本来、その上に「墳丘墓」の あったこと、近所の樋渡遺跡の例で判明している。この 「墳丘墓」が、古代日本語では「やま」。自然の山地に限ら ないのである。

 このように考えてくると、従来(わたしにとっても)関門 となっていた「山陵」の一語が解けた。ために、吉武高木と いう弥生の王墓をもって、「ニニギノミコトの陵墓」と見な すべき障害は、全く存在しなくなったのである。

 以上のように、この吉武高木は、百パーセント、もし遠慮 していっても、九十パーセント、「ニニギの墓」と、わたし は考えている。「日向川の合流点」など、この平群の地を除 いて、他に全くないからだ。

 次の地図が吉武高木遺跡の拡大図だ。

吉武高木


 図の表題部分に(早良王墓とその時代)と書かれているが、 これも九州王朝を認めまいとする頑迷なイデオロギー(虚偽意識) のなせる業である。これについて古田さんも苦言を呈している。


 だが、一言する。このような「倭国の中心・始源の王墓」 に対し、これを「早良国王墓」などと呼び、あたかも一地方 豪族の墓であるかに呼び、そのように標示したならば、 (それが公共機関であろうと、大学などの当事者であろうと )やがて次代の嘲笑の的となるであろう。各関係者の方々の 慎重な配慮を要望したい。

 さてもう一つ、古田さんによる「邪馬国 (ヤマイチコク)」の比定を取り上げる。(以下は『古代史の未来』による。 詳しく知りたい方は朝日文庫『「邪馬台国」はなかった』を お読みください。)

 古田さんが「邪馬国」は誤りで「邪馬国」 と表記するのが正しいことを論証したのは1969のことだった。 原文(紹興本・紹煕本などの三国志。南宋本版)を丹念に読み 取ることで得た結論だった。

 「邪馬壹国」を「邪馬臺国」としたのは松下見林(1637~1703) であり、倭人伝を天皇家と結びつけるために近畿の「ヤマト」 に合わせるための改竄だった。この改竄が何の疑いを もたれずに流布してしまった。新井白石(1657~1725)は 松下見林の対抗して「ヤマト」を九州の「山門」(福岡県) に当てている。以来「ヤマト」をめぐってご当地争いが連綿 と繰る返されている。

 さて、古田さんは「邪馬壹国」という原文に戻した上で、 およそ次のような理路で「邪馬壹国」を博多湾岸とその周辺 に比定した。

 これまでの論者は「ヤマト」(大和、あるいは山門)と いう目的地をまず決めておき、そのあと自説の都合に合わせ て「魏志倭人伝」を改竄してきた。例えばそこに至る行路に ついて『「南」は「東」の誤り』とか『「一ヶ月」は「一日」 の間違い』とか、つじつまを合わせるために原文を勝手に変更して 恥じなかった。古田さんはこうした「目的地先決め」の手法 自体を破棄する。つまり「ヤマイチ」探しなどをやらない。

 古田さんはあくまで原文表記の通りに丹念に倭人伝が表記している 行路をたどる。その到達点が博多湾岸とその周辺であった。

 そして、その地はまさに「弥生期の最貴重物の集中出土地」 に当たっていた。考古学もその地を指し示している。

 その地帯を古田さんは「弥生の黄金地帯」と呼んでいる。 この黄金地帯については 「金印」と「黄金地帯」 で詳しく取り上げた。ここではその地図を掲載しておこう。

弥生王墓


絹の分布

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