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第801回 2007/06/06(水)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:日向(ひゅうが)は辺境の地だった。


 「ニニギが降臨した場所は日向」、この誤まった「定説」を 大前提に森教授の「天孫降臨」神話の解説は始まった。 そのためにさまざまな不都合・矛盾が続出する。その 不都合・矛盾はすべて「定説」論者の間で長く論じられてき たものが、誰も明解な解答を出すことはできなかった。 理論スタートの大前提が誤まっているのだから、正しい解答 のあろうずがない。

 しかし、その大前提(定説)を疑うところから始めて、 古田さんはそれらの問題のほとんどを解明している。 森教授の議論はそれを無視して旧来の問題を蒸し返している だけだ。森教授がそれらの問題をどのように処理しているの か、その処方の一端を見てみよう。

 前回に引用した文章に続けて森教授は次のように書いて いる。

 奈良時代には、噌唹君多理支佐(たりしさ)という隼人(はやと) の豪族がいた。噌唹君は曽乃君とも曽君とも書 かれている。天平12年(740)に板櫃川(いたぴつ、今 日の北九州市)を戦場とした藤原広嗣と律令政府軍との戦い にさいして政府軍に寝返り、政府軍を勝利に導いた重要人物 として登場する。今日も鹿児島県に曽於郡があるけれども、 古代の郡域は姶良(あいら)郡の東半と現在の曽於郡の 北半などだといわれ、多少範囲は異なっている。その範囲は 大隅半島の北半部、志布志湾から鹿児島湾におよぶ地域の 豪族と推定される。

 奈良時代に戦争を左右するほどの豪族を生み出していたわ けだが、それ以前から勢力のあった土地で、ヤマトタケル (日本式尊)が討ったとする物語のある〝熊襲″についても、 熊本県人吉盆地の免田(めんだ)町を中心としたクマ (球磨)と、大隅半島のソを合わせた地域名とみる説があり、 私も支持している。『紀』では景行天皇が九州の諸地域を 服属させる戦いの旅を続けたとき、強大な相手として襲の 国があらわれている。だから、天孫降臨にさいしてソの 地名が最初に登場するのは、辺境という先入観を別にすれば、 とくに不思議ではない。

 これは日向国が神話の舞台としてはあまりにも辺境に過ぎる という定説論者たちが抱いている疑念に対する解答である。

景行の九州遠征説話がヤマト王権本来の説話ではなく、 「日本旧紀」から剽窃し日本書紀に挿入されたものであるという 点はここではおこう。要するに論旨は、日向国が「辺境」という評価は先入観であり、熊襲という 一大勢力の地だから天孫降臨の地として少しも遜色はない、 ということである。

 森教授は考古学者なのに、どうして下図のような考古学上の 事実に目をつぶってしまうのだろうか。ヤマト一元主義を守るために、 自分の専門分野の成果が目に入らなくなってしまったのか。 あるいは故意に無視しているのか。

九州の銅器分布
 この図を見れば、どう言い繕っても神話が指し示している 時代の日向国は辺境である。どう考えたって、日向国が「アマクニ」が「オオクニ」から強奪した 国でもなく、ニニギが派遣された国でもないことは 明らかじゃないか。森教授が捨てなければならない先入観は 「天孫降臨の地は日向国」である。

 上の引用文から、森教授が採用している理論構成上の手法を 指摘することができる。それは神話の時代のはるか後の奈良 時代の文献や銘文をを中心にして論を進める。その物的証拠 として考古学上の遺跡遺物を用いるが、主として古墳時代の もである。博学ぶりをおおいに発揮して、文献・銘文・遺跡 ・遺物は絢爛たるものだが、それゆえに議論はあちらこち らに飛躍する。アカデミシャン特有の衒学的目くらまし論 法である。肝心のテーマ(「記紀」神話を読み解く)につ いては結局なにほどのことも付け加えられない。先ほども 言ったように、問題を蒸し返しているだけである。 続きを読んでみよう。

 ニニギノ尊は襲の高千穂峯から膂宍(そじし)の空国 (むなくに)を通って吾田の長屋の笠狭碕に至った。ここで も二つの重要な問題がある。

 まず、膂宍の空国については「荒れてやせた不毛の地」と 注釈をつけている書物が多い。しかし、民俗学者の谷川健一 氏が宮崎県の椎葉村で猪狩りをする山人から採集した話では、 「ソジシというのは、鹿や猪の背中の肉をさすが、そこは霜 降り肉のようにきめがこまかく、脂肪も多くないので、もっ とも美味である」と述べ、うまい肉がそのまま不毛というイメ ージに結びつくかどうかについて疑問を投げかけている (「椎葉村で採集したソジシという言葉について」『古代学 研究』78号、1975年)。
 「膂宍の空国」を「荒れてやせた不毛の地」と解釈したのは 本居宣長であり、その後この解釈に定説論者は苦しんでいる。 ニニギが行く土地が「荒れてやせた不毛の地」では格好がつか ないのだ。でも説明の仕様がなく切羽詰ったからといって、 「ソジシ」が美味な肉の意だから必ずしも「不毛というイ メージ」には結びつかないとは、まさに苦し紛れの噴飯もの ではないか。

 このあと森教授は、もう一つの問題として「吾田という土 地について」論じている。そこで言いたがっていることは二つ ある。

 一つは、近畿地方の古墳期副葬品(腕輪)と鹿児島県で出土した 弥生時代の遺物が類似していることから、「吾田地方と近畿の 大王との間に何らかのつながりがあったことは事実とみてよか ろう。」と言う。二つの地域の出土品の類似性など 何通りでも指摘できるのではないだろうか。

 さらに阿多隼人、大隅隼人、薩摩隼人の勢力や行動 範囲を論じている。そして、弥生時代から古墳時代にかけ て淀川の河口に「大隅島」というのがあったことを指摘して、 その「大隅島」を「近畿地方各地に分住している隼人集団の要 的な根拠地」とみなしている。「吾田」とヤマト王権をなん としても結び付けずにおくものか、という執念を燃やしている 。そしてついに最も言いたいことにたどり着く。


 二つ目は、山幸彦を海神の宮に送り届けるさいに用いた 無目龍である。

 『延喜式』の隼人司の条によれば、隼人は さまざまな竹製品を製作していることが知られる。隼人と 竹の関係は道具の製作にとどまらず、信仰や文学にも及ん でいる。日本でもっとも古い小説といわれる『竹取物語』は、 今日、竹薮の続く南山城が舞台だとする見方が有力である。 南山城はすでにいろいろな機会に述べたように、南九州から の隼人の移住地の一つであり、ここには大隅隼人が多いが、 阿多隼人の存在も正倉院文書(隼人計帳)にうかがうことが できる。まだ深く追究はしていないけれども、月にたいする 信仰とともに、『竹取物語』の原型も南九州から南山城へと もたらされたのではないかという予測を、私はたてている。

 いずれにしても、「隼人ならば目のつまった竹龍が作れる」 という認識が九州に限らず近畿の人びとにもあったのであろう。

 つまり「海幸彦・山幸彦」の説話の舞台もどうしても 南九州に持ってこなければならないのだ。

 さらにもう一つ、最後の一文では「海幸彦・山幸彦」 の説話は近畿で「造作」されたということを暗に主張して いる。

 ずいぶんと手の込んだ理論を展開しているが、ご苦労なこ とです。少なくとも私にとっては全く説得力がない。 あくまでも「記紀」原文の表記のルールに従って、「記紀」 そのものを解読する古田さんの理論と読み比べるとき、その 正否はおのずと明らかだ。 念のため、既述の関連記事を提示しておこう。

天孫降臨の地

アマテラスの生誕地
「韓(から)国」問題
「韓(から)国」問題(続き)
「大国」と「空国」
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