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第799回 2007/06/01(金)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:「襲」=「噌於」も無根拠の定説


 森教授の記述の中で大隈国の分置の年がはっきりと書かれて いるのに対して薩摩の分国の年が曖昧にされているのに疑問を 感じて「続日本紀」を調べてみた結果、学者さんというのはけっこう 杜撰な言説を垂れ流すものだなあ、と改めて知った。史料の杜撰な 扱い以前に、弥生時代の神話解釈の論拠を「続日本紀」に 求めようとすること自体がピントはずれなのだけどね。

 「襲(そ)」という土地の比定の論拠にも同じような 杜撰さがみられる。これについての森教授の主張を改めて引用する。

 『紀』では、ニニギノ尊が地上に着いたのは日向のなかでも 襲という土地とされている。襲は曽とも書き、奈良時代になっ て地名を二字で表現すること(たとえば泉が和泉、津が摂津) が流行するにつれて、先ほどの郡名にみたような二字表記 (噌於・噌唹)になったと推定される。

 天孫降臨の地を日向とするためには「襲」=「噌於」である ことが要請される。これはその論拠を示す文だが、ここで私は 「地名を二字で表現することが流行する」に引っかかった。 律令を徹底させようとしている時代に勝手に地名表記を変える なんてことが「流行する」なんてありえるのだろうか。それに 森教授があげている例では、「泉」→「和泉」はいいとしても、 「津」→「摂津」は漢字表記を変えたのではなく地名そのもの を変えている。

 この問題についての解答が、やはり「続日本紀」にあった。

713(和銅6)年5月2日
 畿内と七道諸国の郡・郷の名称は、好い字をえらんでつけよ。


 流行ではなく、朝廷からの命令があったのだ。たぶん、律令制の 徹底普及のために全国の地名を漢字表記で決定しておく必要が あったからだろう。「好い字をつけよ」とは「名称を言い変えよ」 ではなく「従来の名称に漢字を割り当てよ」という意だろう。 全国で名称そのものを変えてしまったら、それはそれぞれの地域 の歴史を塗りかえることでもあり、その混乱ははかりしれまい。

 「津」→「摂津」は国名の変化だ。国名は安易に変えるこ とはできまい。上の命令も「郡・郷の名称」と言っている。
 この国名の変化はズーットさかのぼって、天武天皇 (672年~686年)のときである。津国に難波津を管理する 摂津職が置かれたために摂津国という国名がつけられたと いう。(創拓社「日本地名ルーツ辞典」による)
 まるで時代が違う。

 「泉」→「和泉」は好い字「和」を付け加えただけで 「いずみ」という地名は変わらない。これは上の命令に 合いそうだが、しかしこれも国名だ。
 河内国から3郡を分けて泉国を分置したのは757(天平宝字元) 年である。「泉」→「和泉」の変化はそれ以後のことだから、 「津」→「摂津」より約100年も後のことになる。

 「地名を二字で表現することが流行する」という根拠は まったくのデタラメだった。それに、もしあの命令によって 変えられた地名があったとしても「二字」の地名とは限らない。 命令に「二字」なんて指定はない。

 では「襲」→「噌於」はどうか。

 「日本地名ルーツ辞典」は『元来「襲」という一字の地名 だったが、地名を佳字二字で表すようにという政府の命令で 「噌唹」にしたに過ぎない』と解説している。

 ヤマト王権一元主義の宿痾は深い。こんなところにも病が 広がっている。例の命令で説明しようとしているが「佳字二字 で表す」などと、本来命令にない「二字」を付け加えるという詐術を 行っている。「噌」は「やかましい」という意で「唹」は「笑い声」という意。 つまり「噌唹」は「やかましい笑い声」という意になる。これがなぜ 「佳字」なのか、私にはさっぱり分からない。

 また、「噌於」が文献に始めて現れたのは大隈国分置の記事でそれは 713年3月19日であり、例の命令は713年5月2日であることには 目をつぶっている。「襲」→「噌於」という漢字表記の変化が もしあったとしても、例の命令以前のことなのだ。それに これは漢字の付け替えではなく、名称の変化である。

 以上、ヤマト王権一元論者は「襲」→「噌於」という変化 があったという定説について何の根拠も示し得ていない。 それは単なる希望的推定に過ぎない。

 では「襲」とは一体どこなのだろうか。この問題は、 古事記の「筑紫国・豊国・肥国・熊曾国」という地図が 何処から出てきたのか、また日向国は上の地図の何処に 位置づけられるのか、という問題と密接に関係する。 そしてこの問題は「真説古代史:熊襲はどこか(1)~(7)」で 既に九分どおり解明されている。その古田理論を古事記 が提示している地図に焦点を当てて総括することによって その解明は完成するだろう。特に

「熊襲」とはどこか(6)
「熊襲」とはどこか(7)

 で論証したことがその論拠となる。


今日の話題

(お休みです。)

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