2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
「真説・古代史」補充編

厚顔無恥の三「セズ」古代史学会


 次に森教授は『黄泉の国の世界』と題して、 「イザナギ・イザナミの死」を取り上げている。特に
①イザナミの葬られた「墓」

②「膿わき蛆たかる」という死体の描写
に注目している。

 私(たち)の問題意識からは末梢的な問題なのだが、森教授 には重要なモチーフがあるらしい。それを探ってみる。


 イザナミが葬られた場所についての記述は2種類ある。

「紀伊の国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗(くにひと)、 この神の魂を祭るには、花の時には亦花を以って祭る。また 鼓・吹(ふえ)・幡旗(はた)を用て、歌い舞いて祭る。」 (『紀』の一書第5)

「近江の多賀神社出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬 りき。」(『記』)

 このくだりの「一書」は実に第11まである。その中で 「一書第5」の記述は他のどの一書とも全く異質である。 「紀伊の国」が『記紀』神話の舞台外であることを すでに知っている私(たち)には、神話解読のための資料としては 「一書第5」が埒外のものであることは明々白々なことだ。 しかし森教授にとってはヤマト王権一元主義を補強するための 重要な一文のようだ。でも、その解説は次のように歯切れが悪い。 私には論旨が理解できない。


 『記』ではイザナミの葬地を出雲国と伯伎国との境の比婆 の山に葬ったとある。出雲と紀伊の熊野とについては、出雲 にも熊野大社(島根県八束郡八雲村)があったり、『紀』の 出雲神話のなかで熊野諸手船(もろたぶね)があらわれたり、 さまざまな共通点があるけれども、このイザナミの葬地が 『記』と『紀』で出雲と熊野に分かれているのも、そのよう な例の一つに考えてよかろう。


 イザナギがイザナミとの約束を破って覗き見たときの イザナミの姿には次の3通りの描写がある。

「蛆たかれころろきて、頭には大雷(いかずち)居り…(以下身体のいろいろの 部分に計8柱の雷神が続く)」(『記』)

「膿わき蛆たかる」(『紀』一書第6)

「脹満(は)れ太高(たた)へり。上に八色(やくさ) の雷公有り。」(『紀』一書第9)

 このうち「膿わき蛆たかる」と言う描写に森教授はこだわる。 この生々しい描写は、実際に腐乱した死体を目撃したものの手によ るものだという。そして古代人がどういう機会に腐乱した死体を 目撃できるのかを、古墳の埋葬方法を検討しながら考察してい く。

 なんと大げさな、と私は思う。今は腐乱した死体を見る可能性が るのは変死体事件を担当する刑事や検死官ぐらいだろうが、古代では いくらでもその機会があっただろうと思う。山野に放置された 戦争の犠牲者の「水浸く屍」や「草生す屍」、あるいは野垂れ死にした 追放者や放浪者の死体などを目にする機会はいくらでもあっただ ろう。あるいは野山で出会う獣の死体からでも「膿わき蛆たか る」人の腐乱体は容易に想像できよう。

 森教授にはそんは常識的な判断は問題にもならないようだ。 考古学の成果をあれこれ渉猟して古墳時代後半に多く見られる「横穴 式石室」を突き止める。


 横穴式石室の特色の一つは、出入ロをもっていて死者 の世界である石室に現世の人間が入ることができること、 数体から十数体の死者を安置していること、それも同時の 埋葬ではなく数十年の間に追葬を繰り返したものであること、 などを指摘した上で次のように結論する。


 藤ノ木古墳のような立派な石室では家形石棺に葬る場合も あるが、全体としては数は少なく、大半の死者は木棺に納め られた。しかも、前期古墳のように頑丈な木棺ではなく、 今日のミカン箱を立派にした程度の薄板を使っているから、 数年で棺が朽ち果て、石室内に入ると内部の遺骸の変化の状 況がいやおうなしに目撃されることになる。目撃するだけで はなく、白骨化した遺骸を動かすとなると、さらに生々しい 観察を体験的に強いられるわけである。イザナミのあの遺骸 の変化の描写は、この時期の体験が語られているとみてよか ろう。

 だれもが疑問なくやり過ごすところに目をつける独創は 認めるが、どうにもピントがずれている。しかし、どうしても 『記紀』神話と古墳時代とを結びつけずにはおかない、とい う執念はひしひしと感じられる。

 それでも最後には神話の世界にちょっとだけ近づいている。


 『出雲国風土記』には、出雲郡宇賀郷の北の海浜に 「黄泉の穴」があるという有名な文章があって、猪目洞窟 がその候補とされている。このように、イザナミの葬地が あると『記・紀』で述べている熊野地方と出雲地方には、 どちらにも海岸の洞窟を利用した墓がある。いままでは、 私はイザナミの遺骸の変化についての体験は横穴式石室で の知識であったとみていたけれども、海岸洞窟の墓をも 射程にいれる必要が浮かんできた。

 森教授の論述にはもう一つ問題がある。古事記・日本書紀本文・ 日本書紀一書から恣意的に都合のよい部分を引用して同資格の 資料として区別なしに利用している。つまり、史料批判を欠く。 いいかえると、史料性格を区別した上での方法論がない。 しかし「一書」に対しては全く無頓着というわけではない。 日本書紀一書からの引用にあたって次のように述べている。

 『日本書紀』は、歴史書としてはきわめて特色のある書物で ある。とくに〝神代”の部分では、異説・異伝があればそれを 一書の形で収録しており、ときには第十一の一書とよばれる ように、多くの異説・異伝を収めている。通常、官撰の歴史書 の場合は、このような異説・異伝のたぐいは編者によって取 捨選択されて一つの形になっている。どうして多くの異説や 異伝をそのまま載せたのだろうか。

 これについては、具体的な研究の出現が待たれる。なお、 以下ではわずらわしさを避けるために、何番目の一書である かについては区別しないことにする。

 古田さん以前には、かって誰一人として「一書」を明快に 論じたものがなかった。その古田説のあらましは

真説・古代史(7)「日本書紀」がいう「一書」とはなにか
真説・古代史(8)「古事記」対「日本書紀」

で紹介した。

この古田さんの論文を一顧だにせずに「具体的な研究の出現 が待たれる。」とはあきれたものいいだ。「定説」を守るた めに(一体何故、何から守るのだ?)、すべての古田説を 「採択せず」「論争せず」「相手にせず」という方針で無視 し続ける古代史学会の知的品格の欠如はみっともない。
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※最初の表題「「反戦な家づくり」さんへ、有志を募って連名で民主党に現憲法、なかで
2007/05/15(火) 13:56:54 | 雑談日記(徒然なるままに、。)