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第784回 2007/04/30(月)

「真説・古代史」補充編

オノゴロ島はどこか(1)


オノコロ島

 この写真は何でしょうか?
 九州旅行で撮ったオモシロ写真です。宮崎県は高千穂の渓谷に ある周囲100メートルぐらいの池。その中にある長さ2メートルほ どの島?です。

 これ、オノゴロ島だそうです。中央に立っている石碑は「天御柱」 のようです。観光客の皆さんはガイドさん の話を感心して聞いていましたが、私は笑っちゃいました。

 記紀の神話は、ヤマト王権がその正当性を主張し、出自に箔をつけ るために、九州王朝から剽窃改竄したものです。宮崎県の高千穂には 天岩戸神社までありますが、天孫降臨の地とされる高千穂にオノゴロ 島も天岩屋もあるなんて、それだけで噴飯ものです。もともと北九州 を舞台とする神話の舞台を、なにがなんでも宮崎県の高千穂に求めよ うとするから、このようなマンガ的な比定をすることになってしま う。でも、圧倒的多数の人に「宮崎県は神話の国」という壮大なウソ が染み込んでいる。

 ところで、『388 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(41) 「アマクニ」の聖地「天の岩屋」』(2005年10月3日)で古田さん は、アマクニの聖地「天の岩屋」は沖ノ島であることを五つの理由を あげて論証していることを紹介した。その五番目の理由に曰く

『その理由の第五は、はじめにあげた『古事記』の文章だ。 イザナギ・イザナミは、国生みを終えて出発点に帰ってきた。 そこは、つぎの「オノゴロ島」問題でハッキリするように、 博多湾岸のそばだ。――そして今、「天国」の六つの島を眺望 しよう。もっともそこ(博多湾岸)に近い島、それがこの 沖ノ島だ。』

 私はそこで『古田さんは続けて「オノゴロ島」問題を論じているが、 私はそれを割愛して「最古王朝の政治地図」の完成を急ごうと思う。』 と書いて、「オノゴロ島」のことをはしょってしまった。

 しかし、インチキ「オノロゴ島」を見てしまった今、「オノゴロ 島」問題を改めて取り上げようと思い直したのでした。

 まず、「オノゴロ島」ってなんでしょうか。古事記の国生みの段 に出てくる。

『ここに天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)もちて、伊邪那岐命、伊邪 郵美命、二柱の神に、「この漂へる国を修(おさ)め理(つく)り固め成 せ。」と詔りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さしたま ひき。故(かれ)、二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下 ろして晝(か)きたまへば、塩こをろこをろに晝き鳴(な)して引き上げ たまふ時、その矛の末(さき)より垂(しただ)り落つる塩、累(かさ)な り積もりて島と成りき。これ淤能碁呂島(おのごろじま)なり。その島 に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。』

 イザナギとイザナミは、このオノゴロ島を基点にして「まぐわい (婚)」により次々に国を生んでいく。いわゆる大八洲国。この大 八洲国の古田さんによる解明は、すでに 「真説・古代史(3)」 で取り上げた。その国生みの本質は次のようであった。

 イザナギ・イザナミがオノゴロ島を基点に行なった「国生み」は
『暁の太陽が東方に昇って、徐々に西方へと光をのばし、やがて朝の 全域にてりかがやくように、大八洲国の中の「東限」なる、幽冥の地 〝淡路島から″国を生みはじめ、還り来って「天の両屋」つまり博多 湾の東北方なる沖ノ島を生んで、国生みを終結した。』

 さて、オノゴロ島は何処だろうか。

 考古学者・森浩一さんは「日本神話の考古学」で次のように述べて いる。

『男女二神のオノコロ島づくりは……“コオロコオロ”と塩の結晶を 道具でかきまぜる音まで入れて、取り入れられている。』

『このように製塩の情景を思い浮かべると、男女二神は製塩技術にも たけていたか、あるいはそのような仕事を日ごろ見なれている海人系 として扱われているのである。……「記・紀」の展開では、オノコロ 島は男女二神の“まぐわい”(婚)の場として必要であった。』

 つまり、オノゴロ島は塩をかき混ぜる音から擬音的につけられた 名前であり、話しの展開の都合で必要とさてた観念上の島であり、 実在の島ではないと考えている。

 〝潮の鳴る音″から名づけたという学者もいる。あるいは〝自から 凝(こ)る″の意味からの命名だと言う学者もいる。

 これらの説は、
『一切の先入観を排し、まず原文全体の表記のルールを見出す。つぎ にそのルールによって問題の一つ一つの部分を解読する。』
という古田さんの研究方法から見れば、論証抜きの恣意的な説に 過ぎない。

 『記・紀』の地名説話では〝話の筋にあわせて地名を創作した” ような形跡はほとんど認めることができない。逆に、現存地名をも とにして、それと似た音やゴロあわせを基にして説話を創作して いる。それが『記・紀』の地名説話のルールだ。つまり、創作対象 は「説話」であって、「地名」ではない。

 また、次のように説く学者もいる。

『おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば 淡島  淤能碁呂島 檳榔(あじまき)の島もみゆ 放(さ)けつ島見ゆ』
  この仁徳記(古事記、日本書紀にはない。)の歌から、「オノゴ ロ島」は淡路島周辺の島であると言う。この説に対して、古田さん は次のように批判している。


 この仁徳の歌は、もしかりにこれが仁徳時点の歌だったとしても、 たかだか仁徳時代(五世紀ころ)の、近畿天皇家内の認識を示すも のにすぎない。もはや「伝承の原義」は見失われ、〝近畿中心主義 の観念″に立って、「オノゴロ島」を淡路島の近辺と〝錯覚″した のである。

 「オノゴロ島」伝承はきわめて古い。それは『書紀』の一書とし て引かれた「日本旧記」の中に、大八洲国生み説話をともなわぬ単 一の形で三回(第四段、第三、第四、第五、一書)も出現している。 すなわち、「大八洲国、国生み神話」より、その淵源が古いのであ る。

 それでは古田さんはオノゴロ島を何処に比定しているのだろうか。 結論を先に言えば、それは博多湾内にある「能古(のこの)島」である。 その結論に至る論証を、次回、追ってみよう。
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 コメント
この記事へのコメント
オノゴロ島は、沖ノ島の事ですよ。
私も、オノゴロ島が何処にあるのかわからずさがしもとめていましたが、答えはほつまつたえにありました。

そこには、オノゴロ島には、オキツノ宮の八尋殿があるとかかれていました。

よく調べると、沖ノ島の東北部分の海底に遺跡があり、そこには、巨大な柱が4本あります。正に天の御柱です。

ソロモン宮殿を思わせる外観があります。

2018/08/28(火) 10:48 | URL | fukufukuman #-[ 編集]
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