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第782回 2007/04/26(木)

《滝村国家論より》:「ファシズム」再論(15)

「日本ファシズム」の特質


 「日本ファシズム」の思想・イデオロギーの丸山流分析においても、 「国家論の脱落と機能主義的発想」による欠陥が継承されている。 丸山分析の核心は、もっぱら「急進ファッショ運動」を展開した青 年将校と民間右翼勢力の思想に集中し、「日本ファシズム」の中軸 的推進主体である近代天皇制国家の思想・イデオロギーはまったく とりあげられていない。

 しかし『丸山による問題提起は、その「日本ファシズム」分析 の、実質的部分を構成している。』として、滝村さんは次の2点に ついて論述を進めている。

第一
 近代天皇制国家の思想・イデオロギーをまったく無視した 視角と発想じたいの正当性。

第二
 丸山さんによる民間右翼思想の解析の妥当性。

第一の問題

 近代天皇制国家の思想・イデオロギーの核心は、国家が唯一公認 した国教、つまり「国体論」である。「日本ファシズム」やその思 想をとりあげようとすれば、いやおうなしに「国体論」がつきま とっでくる。従って、「国体論」の追究を前提としなければ、「日本 ファシズム」分析も「日本ファシズム」思想の分析もありえない。

 「国体論」というイデオロギーの特質とそれが果たした歴史的役割 の概略を、滝村さんは次のようにまとめている。
 近代天皇制国家は、専制国家である。……専制国家は、多かれ少 なかれ、国家意志の裁可・決定権を独占的に掌握した、専制的支配 者層が、特権的な統治階級としての自己の存立と君臨を、思想的・イ デオロギー的に正当化するために、国家公認の唯一の教説をデッチあ げで、これを社会ぜんたいにおしつける傾向にある。

 そして、専制国家がとりわけ強力なばあいには、この国家・教説 に敵対する、すべての思想・イデオロギーが、情容赦なく弾圧され るばかりか、これと同一ならざる思想・イデオロギーにたいしても、 その自由なる活動は、大きく制限される。

 専制国家に特有の、<国教>による思想・イデオロギー的支配の、 組織的徹底性と継続性という点で、近代天皇制イデオロギーとしての 「国体論」は、世界史的にみても屈指であろう。それは、スターリン 時代のソヴェト・マルクス主義(スターリン主義)や、ヒットラー・ ドイツのナチズムとくらべても、少しもひけをとらない。ただ彼の 二者が、人工的・速成的に創出された、一時の破壊的支配力を発揮 したのにたいして、わが「国体論」は、なんといっても伝統的な思 想的支配力と浸透力を誇った、というちがいはある。

 わが国では、個人たると、組織・制度としての諸個人たると、あ らゆる政治的・社会的存在は、「国体論」を受容し承認することに よってのみ、合法的存在たりえた。つまり、国家機関構成員として の官僚・官吏はもとより、国家構成員としての国民ないし法人とし て、合法的に承認された。

 ということは、「日本ファシズム」の直接的担掌主体である、国家 的諸機関を中心とした、あらゆる右翼的・国家主義的諸組織・諸個人 もまた、建前においてはすべて「国体論」を前提とし、もっぱら 「国体論」の名においてしか、その独自的な思想を表明し、展開で きなかったことを意味している。

 したがって、「日本ファシズム」が、イタリアやドイツとはことな り、国家機構を軸として展開された以上、国家的諸機関を中心に、 政治過程に関与し影響を与えたすべての右翼的・国家主義的諸組織・ 諸個人の思想をのこらずとりあげて、「国体論」との思想的関連を追 究しなければならない。

 そこでなによりも、「国体論」それじたいの思想分析によって、 それが「ファシズム」思想といったいどのような関連にあるか、 つまりは「国体論」の「ファシズム」的性格のいかんを、明示する ことからはじめなければならないのである。

 こうみてくると、丸山のように「日本ファシズム思想」分析にお いて、国家的諸機関が公然(つまり「国体論」として)また陰然と 把持していた思想・イデオロギーをまったく無視することは、近代 天皇制国家の専制国家としての特質を理解できず、天皇制イデオロ ギーとしての「国体論」の、<国教>としてのきわめて特異な国家 的抑圧性をそっくり無視する、問題外のタワケタ発想にすぎないと いえる。

 日本のファシズムが、ナチス・ドイツのように徹底的な政治革命 なしに進行しえた理由は、「世界史的にみても屈指」の「国体 論」という近代天皇制イデオロギーがあまねく浸透し、国家社会を 支配していたからである。

 現在の日本においても、ナチ党のような強固なファシスト党の形 成は不可能だし、不用だろう。しかし、創価学会がその代替を演じる 可能性は皆無ではない。

 新たにファシスト党を形成するより、天皇制イデオロギーを甦らせ る方が手っ取り早く、確実であろう。敗戦時に清算できず「象徴制」 などという姑息な形で天皇制を温存してしまったツケが今大きく膨ら んできている。狆ゾウ極右政権やファシスト・沈タロウが伝統文化を 声高に叫んだり、「日の丸・君が代」の浸透に躍起になっているのは、 「天皇制」イデオロギーが彼らの目指す「美しい国」の装置としても、 その目的を達するための武器としても、欠かせないものだからにほか ならない。

 先日、「ヒットラー、最後の17日」という映画を見た。ナチスに心 酔している登場人物がやたらとナチス・ドイツを「美しい国」 「崇高な国」と賛美するセリフがいまだ耳に残っている。

第二の問題

 滝村さんは、まず、丸山さんの「日本ファシズム」の思想分析の方 法について、次のように手厳しく批判している。

 それから丸山は、もっぱら「民間ファシズム」運動を念頭におい た、「日本ファシズム」の思想・イデオロギー的特質として、家族 主義・農本主義・大亜細亜主義の三点を指摘したが、その方法的手 つきをみていると、とても「思想分析」などといえるような、高尚 な代物ではない。一般に丸山真男といえば、その学的本領は、思想 史家にあるといわれてきたが、少なくともこの、「日本ファシズム」 をとりあげた、思想分析の方法にかぎっていえば、思想を思想とし てあつかってはいない。そこでは、大雑把にひっくくられた「日本 ファシズム」を構成する特定の諸要素が、恣意的につまみ出されて いるだけで、「日本ファシズム」諸思想のそれぞれが、<思想>とし ての内的連関と統一性において追究されてはいないからである。も ちろんこれは、丸山一個の能力と責任などではありえない。科学と しての思想・イデオロギー分析の方法が、いまだ確立されていない ことによる。

 そして続いて、「科学としての思想・イデオロギー分析の方法」についての 持論を提示している。社会科学が科学として確立されるための方法論であり、 当然それは唯物論的方法以外ではありえない。

 ここで煩瑣な方法的論議を展開する余裕はないが、思想・イデオ ロギーとりわけ当該歴史社会の政治過程で、一定の看過できない影 響をあたえた政治・社会思想にたいする分析方法の極意は、それを 統一的社会構成と大きく観念的に対応させて、再構成する点にあ る。

 いうまでもなく統一的社会構成とは、人間社会を、ときどきの 多様にして特殊な歴史的姿態と態様の背後に内在する、<社会>と しての一般的な仕組みと論理構成において把握したところに成立す る。

 それは具体的には、政治・経済そして思想・文化の相対的な区 別と統一的連関を意味している。すなわちそれは、社会を構成する 現実的な諸個人が、

まず第一に、
 その物質的生活つまり生活資料の生産と獲得において、どのような 協同と有機的連関を組織化しているかという、社会的生産関係いかん の問題

つぎに
 この物質的生活を土台とした諸個人の社会的諸関係の総体を、大き くそして直接規制する法的規範が、いったいどのようにして決定され 執行されるかという、政治的・法制的上部構造、簡単には政治体制げ んみつには国家形態の問題

そして最後に、
 一定の経済体制として現出する社会的生産関係を主体的に構成し、 それに根本的に規定されながら、一定の政治形態をつくりあげている 現実的諸個人が、いったいどのような社会的意識諸形態つまりは思 想・文化として結晶する精神的生活を営んでいるのか

という、相対的に区別さるべき三つの問題の統一において把握するも のである。

 したがって、思想・イデオロギー分析の方法的核心は、当該政 治・社会思想が、いったいどのような統一的社会構成像を、じっさ いに提示しているかの追究にある。そのさい、当該政治・社会思想 を、ごく常識的な意味での理想社会像といった、漠たる「全体」と してではなく、右にのべた政治・経済そして思想・文化の体制と様 式のいかんに区別したうえで、思想としての統一的連関を再構成 し、それにたいするげんみつな批判と評価がくわえられねばならな いのである。
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