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第781回 2007/04/25(水)

《滝村国家論より》:「ファシズム」再論(14)

丸山流時期区分の問題点


 これまでの議論をかいつまんでまとめておく。

 「ファシズム」国家形成過程において、日本とドイツ・イタリアとでは 大きな違いがあった。
 ドイツやイタリアでは、「ファシスト」政治組織による権力奪取 とその専制的一元化が先行し、これをテコにして国民社会の戦時国 家的つくりかえを断行することによって「ファシズム」国家を形成 していった。
 これに対して日本では全く逆の進展をしていった。 「ファシズム」社会革命の遂行が先行して、「ファシズム」政治革命 は、くり返し試行されたにもかかわらず、ついに成功しなかった。 これが「日本ファシズム」運動の大きな特徴であった。

 このことを丸山さんは、『「国家機構の外から」=「下からの」ファッシ ョ化』と『「国家機構の内部」=「上からのファッショ化』という 言い方でとらえている。このかぎりでは問題はないのだが、 では丸山「ファシズム論」の何が問題なのか。


 「日本ファシズム」が、もっぱら「国家機構の内部」におけるファ ッショ化を軸として、進展していったというのであれば、とうぜ ん、「日本ファシズム」分析の焦点は、ファッショ化の基軸をなし た近代天皇制国家にしぼるべきであって、まちがっても、その統一 的な理論的解明をさけてとおることはできない、ということにな る。ところが、「日本ファシズム」の歴史的進展と運動形態上の特 質は、国家機構を軸とした「上からの」ファッショ化にあったと指 摘している当の丸山が、はじめから、近代天皇制国家と「国家機構 としてのファシズム」の解明は、やらない、できない、と宣言して いるのである。だれだって、ハテナ、と首をかしげざるをえまい。

 さてそうなると、ここでは、近代天皇制国家の理論的解明をほう りだしておいて、「日本ファシズム」の時期区分や思想・イデオロ ギー、また運動形態や社会的担い手などの問題をとりあげた、丸山 の分析が、いったいどの程度の代物であったかを、一つ一つていね いに検討しておく必要があろう。

時期区分の問題点

 丸山さんは三つの時期に分けている。簡単にまとめると次のよう であった。(詳しくは「ファシズム」再論(12)) )

第一期=準備期
 1919・1920年(大正8・9年:第一次大戦後)頃~1931年(昭和6年:満州事変)
第二期=成熟期
 1931年(昭和6年:満州事変)~1936年(昭和11年:2・26事件)
第三期=急進ファシズムの全盛期
 1936年(昭和11年:2・26事件)~1945年(昭和20年:敗戦)

 この時代区分に対して滝村さんは、「ファッショ化」の進展と強度 という点において、第三期を長すぎると指摘する。東条内閣成立の1941年 (昭和16年)がもう一つの時代区分の要だと言う。この点につ いて丸山さんは次のように述べている。

「……大平洋戦争以後のいわゆる独裁はなるほど政治的自由を殆ど 零の点まで押し下げたその露骨さにおいては空前の時代でしたが、 こういう風になる条件はすでにそれ以前にことごとく出揃っていた のでありまして、ファシズム化の進展という点では量的な発展にす ぎず、それ以前の時期と格別質的な相異はないといっていいのでは ないかと思います」

 つまり、東条内閣成立の1941年(昭和16年)の以前と以降とでは、 量的変化はみられても質的相違はないととらえている。このような 丸山流解釈がでてくる根拠を滝村さんは、『丸山は、もっぱら機能主 義的発想から、「ファシズム」的活動と方策だけをつまみあげてし まい、これを現実的に実践する政治的主体の問題を、正面からとり あげようとはしなかった』点にあり、これが後に丸山さんが 行っている『左翼勢力を根こそぎ解体し絶滅するような、反革命の 政治的弾圧』という『「ファシズム」の本質規定』に収斂していった 、と指摘している。

 丸山のように、「ファッショ化」の方策を、もっぱら国家 権力を中心とした、一方国内の政治的弾圧強化と、他方欧米列強と ツノつきあわせた対中国、軍事外交政策にしか眼がむけられないと なると、とうぜん、第二期の政友会・田中義一内閣は、「ファシズ ム政権」となんらかわりがない、と断定されることにもなる。

「……昭和2年4月より同4年7月にわたる、田中義一大将に率い られた政友会内閣は、立て前は純然たる政党内閣であったにも拘ら ず、内には3・15及び4・16事件によって左翼運動に徹底的弾圧を 加え、緊急勅令によって治安維持法を改変して言論出版集会の 自由を一層制限し、外にはいわゆる田中積極外交をふりかざして済 南事件を機とする対支出兵を行い、ついに所謂満州某重大事件とし て知られた張作霖爆死問題にひっかかつて倒れるまで、その足跡は ほとんどファシズム政権と見まがうばかりです。」

 しかしこうなると、第二期と第三期とのカキ根さえとりはらわれ てしまい、そもそも丸山が提出した時期区分じたいが、なんら意味 をもたなくなってしまう。これも、本質論を脱落させた方法的機能 主義による規定は、たちまちこっけいな自己矛盾をさらけだして、 自己破産するほかないことの、恰好の見本といってよい。

 このように時代区分の間題は、丸山の「ファシズム」把握によっ ては、殆んど何の意味ももたない。それはただ、丸山や私の親父ら 戦争世代の知識人なら決ってもっている、〝右翼や軍部の抬頭と時 代のひどさ・暗さが、満州事変ではじまり、2・26事件以後から 本格化した″という、体験的実感にのっているだけのこと。しかし これを、丸山が勝手に放り出してしまった、国家機構【近代天皇制 国家権力】をむしろ基軸とする「日本ファシズム」運動の特質、と りわけその歴史的進展形態における特異性の問題と、直接からめて とりあげれば、それはまさに「日本ファシズム」の核心に迫る性格 をもっている。

 ドイツやイタリーでは、「ファシズム」政治革命、すなわち「フ ァシスト」政治組織による権力奪取とその専制的一元化を先行的に 実現し、これをテコにして「ファシズム」社会革命、つまり国民社 会の戦時国家的つくりかえを断行するという、歴史的進展形態をと った。ところがわが国では、軍部を中心とした「ファシスト」政治 党派による政治革命は、くり返し試みられ、そのことごとくが失敗 しながら、丸山いうところの「第二期」に入るや、「ファッショ的」 な内・外国家政策、つまり外に軍事侵略政策・内に戦時国家体制に むけた国民経済統制が、いわば同時進行的に開始され、「第三期」 に入るとそれが一層本格化するとともに、軍部をあげた本格的な、 国家的諸機関の専制的一元化を目ざす政治改革運動も、何度か試み られたが、結局それは、開戦時の東条内閣に到っても、決して満足 のいくものではなかった。

 そこで、「第二期」において何故、軍部の暴走とともに戦時国家 的な国民社会統制が可能であったのか、さらに軍部による国政の実 質的支配が、すでにこの期からはじまり、「第三期」で確立したと いわれながら、何故ことさら、軍部による専制的一元化を目ざした 政治改革運動が執拗にくり返され、しかもそのことごとくが失敗し、 東条政権も決して安定したものたりえなかったのかが、大問題とな る。それこそまさに、近代天皇制国家権力が名目的な<親裁>体制 をとっていた、統治形態論的特質から必然化されたものである。

 近代天皇制国家の統治形態論的特質については 大日本帝国を解剖する(1)大日本帝国を解剖する(2) を参照してください。


今日の話題

(お休みです。)

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