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第769回 2007/04/04(水)

《滝村国家論より》:「ファシズム」再論(6)

ナチスの組織編成原理


 世界が最優秀民族によって支配され、劣等民族は絶対服従と自己犠牲 に徹することで真の平和が達成されるというナチズムの根本理念は、 民族内部での組織や制度の編成原理にも敷衍される。

「民主主義的大衆が思想を拒否し、最良の民族したがって最高の 人間をこの地上に与えようと努める世界観は、その民族の中におい てもまた論理的にいって、同じように貴族主義的原理によって、 最良の人物にその民族の指導と最高の影響力を確保しなければな らない。それゆえこの世界観は多数のものの思想の上にでなく、 人格の上に構築せられるのである」

  少数の指導者による専制的支配形態のもとで、一般大衆は全体社会 への絶対的服従と自己犠牲的精神をもって奉仕すべきものだという。実際にナチ党は、次のような方法で、一糸乱れないと言っても よいほどに強固な一元的組織として構成された。

「……ある地区グループの第一議長はすぐ上級の指導者によって任命 される。かれはその地区の責任をもった指導者である。全委員会はか れの支配下にあり、逆にかれが委員会に支配されるのではない。票決 委員会は存在せず、作業委員会だけが存在する。作業は責任指揮者、 つまり第一議長が分配する。同様の原則がすぐ上級の組織、小管区、 中管区、あるいは大管区にも妥当する。つねに指導者は上から任命 され、同時に無制限の全権と権威を与えられる。ただ全党の指導者 だけが党規則に基づいて、全党員大会で選ばれる。だが、かれはこ の運動の独占的指導者である。全委員会はかれの支配下にあり、逆 にかれが委員会に支配されるのではない。かれは決定し、それによっ てしかし自分の双肩に責任をも担うのである。かれがこの運動の 原則に違反したり、運動の利益によく奉仕しなかったとすれば、 新しい、選挙の裁きの前でかれに責任を取らせ、かれの地位をとり 上げることは運動の支持者の自由である。その時、かれのかわりに、 より気力のある新人が現われるが、けれどもかれは同じ権威と同じ 責任をもつのである」

 この構成原理を政治・社会のあらゆるレヴェルに普遍化することによって ファシズム社会が強固に構成されていった。

「この原理をただ運動自体の隊列の中だけでなく、全国家に対して も決定的な原理とすることは、この運動の最高課題の一つである」

「民族主義国家は、地方自治体から始まってドイツ国の指導部にい たるまで、多数決によってことを決するような代議制はなく、ただ その時々の選ばれた指導者に助言し、指導者から仕事を分担させら れるような協議会だけがあるのだ。……民族主義国家はその代表団 体を、はじめから政治的な協議会と職能身分的な協議会とで構成す る……。」

両者が効果のある協働ができるために、その上に選り抜きとして 特別の参事会をつねに設ける。

協議会においても、つねに投票は行なわない。それらは仕事をする 機関であって、票決機関ではない。個々の構成員は意見を述べること はできるが決して決定する権利はない。決定はもっぱらその時々の それに対して責任をもつ議長だけにある。

「絶対的な責任と絶対的な権威とが無条件に結合するこの原則によっ て、次第に選り抜きの指導者が育成される。これは、今日の無責任な 議会主義の時代には、まったく考えられないことである」

 私はこのヒットラーの組織論を読んですぐ、沈タロウの教育支配の 手法と全く同じだと思った。ヒットラー以外にこのような組織論を創出し たものがいるのかどうか詳らかではないが、沈タロウはこのヒットラーの 組織論を盗用したのではないか、と思われるほど酷似している。 もしかすると、沈タロウはこっそりと『わが闘争』を愛読している?

 いま都立校で教職員がもの言えぬ状況になっているが、学校の 民主的組織形態を沈タロウがどのように破壊してしまったのか、 上記のヒットラーの組織論で説明してみよう。

 各学校の指導者である校長はその上級者である教育委員会によって 任命され、意志決定の全権を委任さる。もちろん意志決定において、 各学校の構成員(教職員)は自由に意見をのべ助言することはできる が、最終的に裁可し決定するのは校長だけである。

 だから、校長は各学校に君臨する専制的支配者であって、学校は 指導者の指示・命令を忠実に実践する直属的執行機関として位置づ けられる。

 しかし同時に、このような校長への意志決定権の委任は、あくま でその結果にたいする全責任とひきかえに付与されている。した がってこれは、大きくみると、校長たちに、能力と実力の うえでの「生存競争」を展開させようとしていることになる。

 その校長たちの忠勤ぶりを監視する機関が地域ごとに設置される 「学校経営支援センター」である。そこから各学校に派遣される職員 はやがて、大日本帝国時代の「視学官」のような猛威を振るうように なるだろう。

 校長が意志決定権を委任されているといいながら、校長が 教育委員会の言いなりの決定しかできないロボットに成り下がって しまう仕組みになっている。


 しかし政治的な組織レヴェルでは、このような組織編制原理には 組織の自己崩壊にいたる決定的な欠陥がある。滝村さんの論述を聞 いてみよう。

 こういう、各級機関指導者に意志決定の全権と結果責任が負わさ れる指導者<専制>体制は、最頂点では単一の指導者が君臨する <親裁>体制へと収赦され、かつまた、それを前提としている。

 これは、軍事組織ににた、日々行動する政治的組織としての機動 的一元性が、極限にまでおしすすめられたもので、専制国家とりわ け戦時国家体制の組織的・制度的構成原理としては、一定の有効性を もっている、

 ただ、この種の体制のむずかしさは、最頂点にたつ<親裁者>が、 じっさいに、真に実力ある者を各級レヴュルの指導者として抜擢・任 命し、失策つづきの無能者を容赦なく罷免できるかどうかという点 に、かかってくる。

 これはけっして、最高支配者の選眼力の問題ではない。実力がな ければ困るが、たとえ実力があっても、自分にとってかわりかねな い野心までもっていては、さらに困る。一口に実力・能力といって も、特殊専門的な職人的技倆と、忠誠心とは平和共存することが多 いが、綜合的な政治能力や実力は、むしろ野心と結合しやすくて、 忠誠心とはなかなか同居しがたい。

 ところが各級レヴェルの指導者に要求されるのは、後者の綜合的な 政治的能力だけに、最高支配者が、この種の実力者をじっさいに抜 擢できるかどうかは、なかなかむつかしい。だから、<親裁>体制 は、いつでもどこでも、気がついたら、ただの特殊的技能者に、綜 合的な政治的技倆を要する重大な権限が与えられていたり、自分を おびやかさないぷんだけ仕事の方はさっぱりの、無能な茶坊主ばか りにとりまかれていたというのが、むしろふつうであった。ナチ・ ドイツもその例外でなかったことは、まだ記憶に新しい。


今日の話題

(お休みです。)

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この記事へのコメント
はじめまして

突然のコメント失礼致します。

私のサイトで、こちらの記事を紹介させて頂きましたので
ご連絡させて頂きました。

http://babyif.blog96.fc2.com/blog-entry-272.html
2007/04/04(水) 16:54 | URL | 子育て情報局 #-[ 編集]
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