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454 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(13)
オウム真理教事件について(7)
2006年3月17日(金)


 「歎異抄」の有名な二つの文言。
『善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。』

 俗に「悪人正機説」と呼ばれている。

『なにごとも、こゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき 業緑(ごふえん)なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし。』

 こちらは「契機論」と言う。

 麻原彰晃は自らの宗教による世界観・倫理観を語る気配を全く見せない。サリンによる無差別殺傷の背後にある「契機」はついにはっきり見えぬまま裁判は終わりそうだ。しかしサリン事件がこの社会に突きつけた問題は残る。
 吉本さんの問題意識を追ってみる。


 無関係、無差別の殺人が成り立つ契機は、いまのところどこにもみえてこないんです。うかうかと想像力を働かせればなにかいえそうなんだけど、いってしまうと全部不正確でもどかしい感じが残ります。オウムの問題は、ある意味で契機自体が浮遊した現代の社会的段階がもろにかぶさっているともいえます。善と悪が明瞭にならず、フワフワしているような情況があるわけです。
 僕はオウム・サリン事件からずいぶん多くを学びました。
 親鸞が「善人なおもて……」というのは、こちらの琴線にひっかかってくる鮮明で深い言葉です。これは一種のアイロニーというか、反語なんですね。こういうことによって、親鸞は善悪の奥行きを鮮明に浮かびあがらせています。
 僕が感じたのは、親鸞というのは本気で極悪非道の人間のほうが浄土にいきやすいと考えていたんじゃないか、そういう解釈の仕方がオウム事件を通して僕のなかに生まれてきました。

 極悪非道というのはなにかというと、目にみえないかたちで善を包括している悪が極悪非道で、目にみえるだけで奥はなにもないというのがただの悪じゃないか。極悪非道というのは、要するに悪のなかに善が潜在的に含まれていて、庶民の社会でいう悪にはそれだけの含みはないと、親鸞は本気で思ってたんじゃないか。

(中略)

 市民社会にあいまいなまま流布されている善悪観をはみ出すのは確実ですが、そのはみだしが極悪のなかで浄土により近い善だという、人間性に対する理解を親鸞はもっていたのかなという実感が出てきました。ただ悪をした、善をしたというならなにもいらないのですか、極悪をするためにはどこかに潜在的に善へいける要素が合まれるんじゃないかと、親鸞はそう人間を理解したのではないでしょうか。



 オウム・サリン事件をきっかけに吉本さんの親鸞理解に大きな変化がきざしていることがうかがえる。極悪非道のなかに潜在的に善へとつながる要素が含まれるという人間理解を親鸞がもっていたのではないか、というところへ踏み込んでいる。もちろん、親鸞を語りながら吉本さん自身の内部で起こっている思想の展開を語っていると思う。ここのところが激しいバッシングを呼び起こした個所なのだろう。
 「歎異抄」を通り一遍に読んだだけの私の親鸞理解からはとても大きくはみ出した言説で、私はまだよく理解できないでいる。ただ同じモチーフが、宗教思想の問題ではなく現代的な倫理の問題として語られるとき、私(たち)の課題へと確かに重なってくる。


 阪神大震災と、オウム真理教とサリン事件を結びつけるとすればこの二つの東西の事件で、僕らの呑気な生活感覚は、一挙に縮められた、崖っぷちの所まで持っていかれたという感じを持ちました。それくらい重要な問題だと考えています。
 そうすると、「これは本当は何を意味しているのか」ということは、これから様々なことが分かってきたら、本格的に解いていかないといけないはずです。朧げな予感で、阪神大震災とサリンの事件をいうとすれば、とても大きな影響力と衝撃力を持っていて、後々これからの問題に長く尾を引いていくだろうと思います。ある意味で戦後五十年の平穏さ平和性を、一挙に荒れ狂う波の中に放り込んだことと同じ大きな意味を持っています。これの影響は、これから出てきましょうし、また、これからよく分析し、確かめて、自分らの進路を決めていかなければ駄目じゃないかと思うのです。
 そういう意味では、大変な事件で、マス・コミや、その影響で一般的に市民社会に流布されている善悪観から見ますと、とてつもない無差別無関係凶悪な殺傷事件ということで片付けられそうです。しかし、僕らが善悪の倫理を考えるとすれば、我々は現在まで通用している倫理は、多分、高度の資本主義消費社会においては疑わしくなった前触れ状態にあるということです。市民社会の枠内の倫理として善悪と言われていたものは、もっと「普遍的な倫理は何なのか」という問題に立ち向かっていかないと、これから後の社会の動向に対して、通用しないんじゃないかと僕は思います。

 その普遍的な善悪へ向う倫理のモチーフに対していまの市民社会の善悪の枠内でやられている非難は、一面ではもっともなことでしょうが、他の一面では小っぽけな、従来に捕われた枠内の規模しかない善悪で、善悪の問題は本当は、もっと普遍化して、拡大していかないと、これからの社会的な成り行きに耐えられないんじゃないでしょうか。
 僕がサリン事件とオウム真理教と結びつけるとすれば、市民社会における善悪という所で無差別無関係の人に対する殺人ということで、殺傷の次元を一挙に新しい次元の殺傷に持っていった事件ということになります。また、市民社会の規模の善悪だけで済むかという問題になってくると、善悪の倫理性を普遍的な善悪の問題にまで、どういうふうに拡大していけば、実りがあるのかという所へもっていかないと、対応できないでしょう。その二つの善悪の問題。つまり、普遍性にまで拡大されてゆく善悪の規模と市民社会的善悪の規模と、その両極を踏まえた上で、オウム真理教とサリン事件の問題を考えてきましたし、これからもするだろうと思います。これは、社会的常識から言うと、それに反する所があるかもしれません。しかしその辺の常識にとどまるのなら、僕らの思想の存在する根拠はないので、たんに法律の責任にしかならないでしょう。僕らは思想の問題をよく踏まえて「倫理はどう普遍化して行けば、これから後の社会の進展に対応できるか」という所まで考えなきゃいけない。これは、僕の基本的な考え方です。オウム真理教をサリンによって結びつけられている事件は、僕なんかには、いちばん重要な観点を作る課題なわけです。



 「普遍的な善悪」の問題を、「誰もが持っている人間性の闇」の問題と同義だと、私は考えている。その「人間性の闇」をも包括したもっと普遍的な倫理というモチーフを、吉本さんは自らの課題としている。どちらかというと文学に似つかわしいモチーフといえる。
 ところで親鸞は、人は「業縁」がなければ一人とて殺せないが「業縁」があれば百人でも千人でも殺してしまうものだ、と言っている。この「業縁=契機」とはなんだろう?「契機」をつくるのは1歳未満までの間に形成される「無意識」だと、吉本さんは別のところ(「超『20世紀論』」)で言っている。人間精神の「無意識」の領域が「人間性の闇」の淵源だという。仏教ではこれを「業」と言ってきた。
しかし「無意識」だけでは「業縁」は生まれない。「縁」という他者との関係がもう一つの要因としてある。これは吉本思想のキーワードの一つである「関係の絶対性」のことではないかと、ふと思った。単なる思い付きだから、いまは深入りしない。

 「オウム真理教事件について」が、思いかけず、ずいぶん長くなってしまいました。しかも「正義論」のモチーフからはずいぶん離れてしまったようです。一応今回でこのシリーズを終わります。

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