2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第765回 2007/03/30(金)


今日の話題

城山三郎さん追悼:「辛酸また佳境に入る」

 城山三郎さんの「辛酸」を読んだ。といっても、もう十数年前のこと。 当時、職場の友人たちと月に一回ぐらいの割合で読書会を行っていた。 そのとき職場で配っていた読書会案内のプリントを探し出してみた。


 「辛酸」は冒頭より、どうしても三里塚の農民や水俣の 漁民の辛酸を重ね合わせて読まざるを得ない。日常を覆っ ている平和という幻想のベールがひととき破れる。思い は、数千年来連綿と続くこの国の無名の民の、埋もれたま ま忘れ去られていく辛酸の歴史へと至る。

「辛酸亦入佳境」

 田中正造はこの言葉を好んで揮毫したという。小説の 中で、正造の遺志を継いだ宗三郎がこの言葉の意味をあ れこれ考えるくだりがある。

『まるびを帯びたその5文字が、宗三郎の視野いっぱい にふくれ上がった。辛酸を神の恩寵と見、それに耐える ことによろこびを感じたのか。それとも、佳境は辛酸を 重ねた彼岸にこそあるというのか。あるいは、自他とも に破滅に巻き込むことに、破壊を好む人間の底深い欲望 の満足があるというのだろうか。正造がそのいずれを意 味したのか、そのすべてをも意味したのか、知る由もな い。ただ、宗三郎に明らかなのは、残留民ににはいまど んな意味においても佳境がないということである。』

 ぼくは、そのいずれも、正造が意図した真意とは違う ように思う。

 体制からあてがわれた生ではなく、自らの固有の生を 自らが選び取って生きる、いや、体制からあてがわれた 死ではなく、自らの固有の死を自らが選びとって死ぬも のにとって、辛酸はもとより覚悟のうえである。ならば、 それが如何に辛酸であったとしても、 自らの固有の生死を生き死にできることは人生の佳境で なくて何であろう、と思う。

 水俣の民の受苦をともに苦しむ石牟礼道子は、水俣の 民を無辜の民とも聖なる民とも呼び、水俣の海を「苦海 浄土」という。

 三里塚でひとり細々と農業を営んでいた小泉よねさん (当時64歳)は堀立小屋のようなその住まいを第2強制 執行で取り壊され、ささやかななりわいを奪われる。が、 よねさんは一生のうちで「闘争が一番楽しかった。」 という。

 「闘争が一番楽しかった。」
 「苦海浄土」
 「辛酸亦入佳境」



  地の中に眼がある
  拒むこと以外に 死を
  死に続けるすべをもたない夥しい屍体の。
  腐蝕し土と化した肢体の痛みを
  一点に凝縮して腐蝕を拒み
  あらゆるモニュメントを拒み
  歴史へのいかなる記載をも拒み
  数であることを拒み
  大きく見ひらかれたまま
  閉じることを拒み
  無駄死にを強い続ける卑小な生者のための
  奈落への心やさしい道づくり。
  数千年の眼孔の堆積は巨大な穴となり
  ふるさとの墳墓
  あるいは忿怒は増殖する。
       <ふるさともとめて 花一匁>
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貴サイトの感想
「辛酸」読んでいて、何となくネットサーフィンをしている時に、偶然このサイトを見つけました。「自由のための不定期便」のフレイズ。良いですね。とても気に入りました。バックナンバーをあれこれ読ませてもらっています。
読書量がものすごいですね。自分も国家、自由、平等、正義等を素人ながらあれこれ考えています。また、疑問があれば質問しますので、よろしくお願いします。
2012/05/25(金) 17:04 | URL | 竹場 敏雄 #-[ 編集]
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