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453 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(12)
オウム真理教事件について(5)
2006年3月16日(木)


 サリンによる無差別殺戮という事件の本質をどうとらえるか。その違いが、もろもろの宗教家・知識人・一般の新聞投書者たちからの激しいバッシングの対象となった。
 吉本さんの見解を読んでみよう。


 何度でもはっきりさせなくてはならないが、わたし(たち)が許しがたいとおもって関心をもっているのは、どんな者たちによってなされても(もちろん国家=政府によってなされても)サリンを発生させることで無辜の民衆を無差別に殺傷した行為と、そのサリン行為に含まれた殺傷次元の高度化(たとえばふつうの爆弾と原子爆弾の相違のような)ということだけなのだ。
(「超資本主義」より)



 この発言に対して「それなら敵対している人間だったら殺傷してもいいのか。」といった言葉尻をとらえるような幼稚な非難もあったようだが、まともに文章を読めば、そんな益体もない非難が出てくる余地はない。
 吉本さんが「殺傷行為の高度化」といっていることが、たぶん大方の理解を拒んだようだ。このことを吉本さんは次のように詳しく論述している。「余裕のない日本を考える」から引用する。


 いままで、敵対する国家のあいだに戦争が起こって武力衝突の結果、直接に戦闘員が死傷することはたくさんあった。またそれに巻きこまれて非戦闘員が殺傷されることもあった。いわゆる国家間戦争の武器の役割がそうだった。



 思えば支配者どもの歴史はそのような殺戮の連続であった。その殺戮を是認あるいは正当化しておいて「一人の命は地球よりも重い。」などといういうことをいけしゃしゃと御託宣して恥じないやからがよくいる。毎日世界のどこかで国家による殺戮を行っている人類の現段階では、そのような物言いは罪の深い虚偽である。
 ところで、吉本さんはサリンや原子爆弾のような無差別殺傷兵器による殺傷は、これまでの殺傷とは本質的に違うと言う。


 だがこんどの松本サリン事件、とくに、東京の地下鉄サリン事件は、国家間の戦争でもないし、敵対している人間や勢力の争いでもない、まったく関わりのないただの無辜な民衆を承知のうえで殺害している。これはサリンという猛毒性の気化物質の無差別な拡がり方から起こる無差別な殺傷力がつかわれたからだ。それと一緒に、(人間を人間が殺そうとする)動機や理由に、かつて無い意味をつけくわえた。もちろん結果だけからみれば殺傷行為に変わりない。だがある事柄に関わっていないし、関わる気持ちさえももっていない者が殺傷されることがはじめから見込まれていて、天災とおなじ不意打ちの行為を意味している。言いかえれば殺傷行為をする人間(または集団組織)はゼロであるように雲隠れしながら、ほんとは「人間」全部を殺傷し、抹殺しようとするモチーフをもった行為だと見倣してよいことになる。これはたとえば狂気の人間が、機関銃を乱射したり、車の中で放火したりして無差別に狙いを定め、その結果なんの関わりもなく偶然そこに居合わせた人間を殺傷してしまったというのと同じようにみえて、実はまったくモチーフの次元が違っている。もちろん人が人を殺傷するというのは、どんな場合でもよくないに違いない。だがそれはサリン(や原子爆弾)による殺傷とはまったく次元が違うことだ。
 敵対している人間を殺傷する行為は、口で言い争うことからはじまって、腕力沙汰になって傷つけ合うという喧嘩の延長線で考えられることだ。サリン(や原子爆弾)による殺傷は、まったく次元の違う殺傷行為だと、言いたいわけだ。同じように人間を殺傷するのだから、結果は同じじゃないかという考え方を、とるべきでないとおもう。次元が違う殺傷だということが重要だ。なぜかというとサリン(や原子爆弾)は、無限に多様な殺傷行為に道を開く糸口をつけることになるからだ。

 人類はやがて人間どうしの殺傷を止めるところから始まって、すべての殺傷行為を止めるのが理想だ、という「理想」というイメージを、阻止してしまうことになる。松本サリン事件・地下鉄サリン事件は、わたしたちに無限に多様な殺傷行為がありうることを示唆して、衝撃とやりきれない絶望感を与えてしまった。これは重大に考えて考えすぎることはないとおもう。



 市民社会に流布している一般的な善悪観をはみ出してしまった悪だと言う。したがってこれまでの善悪観に則って裁いてことたれりと済ますことのできない問題をはんでいる。土屋さんは「組織的になされた大衆殺戮に対して法律的対処をしながら、同時に、この社会の自由の原則を放棄しない。」と言っているが、たぶん「正義論」の枠内では収まらない問題だ。あるいはまったくの別問題だというべきか。人間を救済するはずの宗教(国家という宗教も含めて)にともすると凝縮して現れる人間精神の闇を深く考察することを、この問題は要求している。

 吉本さんの言説は、これまたバッシングの対象の一つとなった親鸞の「悪人正機」に関わる論考へと進んでいく。

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