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第753回 2007/03/15(木)

《滝村国家論より》:政治とは何か(5)
広義の政治・二つのタイプ


 国家レヴェルの<狭義の政治>との類似性ゆえに身近な事象につい ても広く政治性>という概念が使われている。それを<広義の政治> と呼んでいる。滝村さんは対照的な例を二つあげている。

例1

 小さな大衆的サークルの運営において、さも会の共通利害を代表す るかに装いながら(つまり会の共通理念の名の下に)、その実自己の 個別的利害を強引に押し通すような指導者(リーダー)を、人々は多 分に〝彼は政治的技術にたけている″とか、〝彼は政治的人間だ″と いうように批判的に呼ぶ。

例2

 自然発生的に勃発した広範な規模の大衆運動の過程で、大衆のなか からその優れた指導能力と統括力を買われてリーダーに選出されてき た者に対しては、彼と行動を共にしている者たちは〝彼はなかなかの 政治家さ″と、肯定的に評価する。

 例1は、 社会の支配階級の<特殊利害>が幻想上の「共同」利害として押し出 されて支配を貫徹していく<狭義>の<政治構造>と、内的構造の 類似性をもっている。これは<内的政治性>の問題であって、何より も<意志>の<形成>過程に関わるものである。

 例2は、  社会において諸階級・階層の上に立ち、協同社会的な秩序の 維持・統制にあたる<第三権力>とあくまで形式上の類似 性をもっている。したがって、これは<第三権力性>の問題であって、 とくに<意志>の<支配>過程に関する問題といってよい。

 ここでさらに、滝村さんはブルジョア政治学の政治議論を次のよ うに批判している。

 古くからブルジョア政治学者によって盛んに論じられている<広義 の政治>概念のもつ多義性の問題も、とことんまで煮つめれば、すべ てこの二つの型の問題に収赦されるはずである。

 因みに、近代政治学とりわけ多元的国家論以来のブルジョア政治学 における<政治=悪>説の根拠は、第一の<内的政治性>の側面を 現象的に把えたものである。

 また、同じく<政治=必要善>説は、第二の<第三権力性>の側面 を何よりも「社会的秩序」=公共性の問題として把えたところに成り 立っている。

 そうしてブルジョア政治学においては、かかる<政治=悪>説と <政治=必要善>説とが機械的に縫合され、<政治=必要悪>説が 全面に打ち出されているわけである。

 また、戦前の「絶対主義天皇制」の公的イデオロギーたる「家族主 義国家」観では、西欧の立憲君主制が〝権力(強力)による支配″を その〝政治″の本質としているのに対して、わが国は<政体>は立憲 君主制の外装をもっていても、恰も<家庭>において<家父長>が <子>に対する如く、<現人神>たる<天皇>がもったいなくも <国家の家父長>として臣民たる<赤子>に接し、<全人格的>な 善導を行なうところにこそ、<東洋政治>の範たるべきわが<国体>の 精華があるとされた。

 もとよりかかる神話(正確には<天皇制宗教>イデオロギー)は、 〝天皇は神的な権威はあっても、西欧の君主の如き権力者ではない″ という、大衆レヴェルにおける<常識>を前提とし、またそれを上 から強力に増幅することに成功したところにはじめて成り立っていた といえよう。

 こうした影響もあって、戦前からのわが国における ブルジョア政治学者の間では、いまだに<政治>が多くの場合否定 的な意味では〝権力による支配″という<政治=悪>説として、 また、ときに肯定的な意味では〝人格的権威による指導″という <政治=善>説として、並列的に論じられる場合が多いわけである。

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