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第749回 2007/03/11(日)

《滝村国家論より》:政治とは何か(3)
直接<政治的社会構成>に関わる問題


 <共同体-内-国家>の具体的なあり方を考えるときは、理論的に 『<政治的国家>と<社会的国家>』 という二つの概念が必要不可欠だ。政治事象を扱う場合も、当然、 この二つの位相をふまえて構造的にとらえなければならない。

 これを<共同体-内-政治>事象の発生について敷衍すれば、 <国家>それ自体の根柢に関わる<政治的>問題から生起する場合と、 <経済的・社会的>レヴェルから媒介的に転化してくる場合との二 通りの場合に分けて考えることになる。

<政治的>問題から生起する政治事象

 社会の<政治的社会構成(秩序)>に直接関わる問題と実践的に 関わるとき、<国家意志>の最も本質的な部分に介入し、対立・抗争 することになる。
 例えば、<総資本>としての財界トップリーダーが、その政治的 代理人(政治家)や官僚に対して、各種法規の作成・立法・施行を 働きかけていく過程とか、あるいはこのような過程に対して 被支配階級の側から、 議会内・外においてあらゆる手段と方法で、ブルジョア政治構造 の根柢的止揚を目ざすような運動を積極的に強力に対置する過程とか を想起することができる。

 最近では<総資本>意志は、あからさまに国家の根幹に関わる 最高法規の改編にまで介入しようとしている。オテアライ・ビジョン はそのマスコミ向けの声明にほかならない。

 教育基本法改悪をめぐっての攻防は、国民的な強力な高まりを 創れずに予定どうり終わった。共謀罪・国民投票法・憲法改悪 と、政・財・官が打ち出している攻撃はまだまだ続く。

 社会の<政治的秩序>の問題から派生する政治事象は上のような 対内的政治構成の場合のほかに、<共同体-間-政治>によって媒 介される場合もある。つまり、<国家>それ自体の存立に関わる問 題として<国家>の外的規定性の問題、あるいは対外的な政治構成 の問題によって媒介される場合である。

 最も典型的には、対外上の基本政策をめぐる諸党派間の論争・抗 争・闘争がまき起されるケースである。滝村さんは、例として、対 外政策の根本的な問題である政治的・軍事的政策をとりあげている。


 政治的・国家的理念の問題を根本義と考え、国際世界における自 国の政治的および経済的な地位のゆるぎない確立と向上を追究する 政界のトップ・リーダーや、個別資本の利害にとらわれず何よりも <総資本>の立場と利害を巨視的かつ根柢的に把えることのできる 財界のトップ・リーダー、また、政治的理念よりもそのことによって 得られるであろう少なからぬ経済的利害を考え計算した一部の資本家 等が、他の友好諸国と政治的・軍事的な条約を締結して、敵対する 諸国との間の起りうべき衝突に備えようと画策した場合、 同じ支配階級内部でも、もっぱら自国の政治的理念と立場の考察か ら、友好諸国との条約は同盟形態による自国の実質上の屈服である として反対する愛国者や、それによって少しも利益にあずかれない 不満たらたらの資本家もいて、条約締結に到るまでの事態は非常に 複雑になってくる。

 また、当該政権担任者が軍事同盟条約の履行に忠実であろうとす れば、当然いざという場合に備えて<徴兵制>を施行しようなどと して、内的な政治体制を整備すべく対内的な関連法規の改正・補正 まで図るから、被支配階級にとってはたんなる思想上の問題ではな く、極めて切実な現実的問題として認識され、彼らの反対運動は高 度の<政治性>を帯びるようになる。

 さらに軍事同盟条約には、多くの場合リーダー・シップをもつ国 への基地提供等の条項も含まれているため、基地設置に伴なう様々 な実害〔土地接収・騒音・戦闘機の墜落・演習や爆発物の大量貯蔵 による危険性など〕を予想して反対する人々もあらわれ、この方面 からも条約反対運動は高度の<政治性>をもつようになるわけであ る。


 滝村さんのこの論文は35年前のものだが、まるで現在の政治状況を 述べいるようだ。

 「政権担任者が軍事同盟条約の履行に忠実であろうと」して、「いざという場合 に備えて「内的な政治体制を整備すべく対内的な関連法規の改正・補 正」を図り、成立せしめてきた法規は、
「周辺事態法」であり
「通信傍受法」あり
「国旗・国歌法」であり
「改定住民基本台帳法」であり
「憲法調査会設置法」であり
「団体規制法」あり
改悪「教育基本法」
である。
 共謀罪・国民投票法・憲法改悪の後には当然<徴兵制>が想定され ているだろう。沈タロウが「徴兵制度があれば90%が自発的に参加す る」と発言しているそうだ。
今日の話題

右翼イデオローグの理論レヴェル(2)

(1)現行憲法は、敗戦の産物として 日本の歴史から切り離されて生まれたものです。

 大日本帝国の敗戦はまぎれもなく日本の歴史上の一大事件だ。その敗戦 を契機に新しく制定された憲法を「日本の歴史から切り離されて生ま れたもの」と断ずるとはなんともトンチンカンな論理だ。

 文脈に沿って好意的に解釈してみよう。

(2)前文では、米国の独立宣言とそのベースとなった(英国の哲学 者)ジョン・ロックの「市民政府論」を借用し、個々人の生命、 自由、財産を守るために国家をつくったという論理を展開してい る。

と言っているところから推測すると、欧米の国家理論を下敷きに創られ たものだから「日本の歴史から切り離されて」いると言いたいらしい。 本当はお得意の決まり文句「押しつけ憲法」と一刀両断に切り捨てたい ところだろう。最近はこの決まり文句は威力がなくなってきている。 憲法が制定されるまでの経緯がより正確に研究されてきて、単純に 「押しつけ憲法」と裁断することができないことが明らかになってきた。 (例えば今日の話題:『焼け跡で生まれた憲法草案』 、小熊英二著「<民主>と<愛国>」第3章・第4章)

 もしも、『欧米の国家理論を下敷きに創られたものだから 「日本の歴史から切り離されて」いると言いたいらしい。』という 私の読みが当たっているとすれば、これもおかしな論理だ。それじゃ、 大日本帝国憲法も否定せずばなるまい。あれはドイツ帝国憲法を 下敷きにしている。

 ヤギ先生のご専門は憲法学と思想史だそうだ。「米国の 独立宣言」とかロックの「市民政府論」とかをもち出してその 大いなる博学振りを披露しているが、「個々人の生命、自由、財産 を守るために国家をつくった」とはあきれたね。憲法学者の言とは とても信じられない。せめて「個々人の生命、自由、財産を守るた めに」憲法を制定したというべきでしょう。しかし、日本憲法前文 をどう読んでも「個々人の生命、自由、財産を守るために」憲法を 制定したなどどいうハスッパな解釈は出てこない。それらしいく だりを引き出すと「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免か れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とか 「われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とかだろうか。 一部分だけを抜き出して恣意的に解釈するという詭弁はポチ・コイズミ が自衛隊のイラク派遣時に使っていた。辺見庸著「抵抗論」から。

 首相は記者会見中に憲法前文を記したらしいメモをやおら取りだし

「憲法をよく読んでいただきたい。憲法の前文、全部の文章ではあり ません。最初に述べられた、前の文、前文の一部を再度読み上げます」

と前置きして

「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和 のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いずれの 国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであ って、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふこと は、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務 であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの 崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」

と、病んだ羊たちのように弱々しく、飼い主にどこまでも従順な記者 団を前に、さも得意気に朗読したのである。この国最悪の憲法違反者 が国民に憲法をよく読めと説諭する。靖国をこよなく愛する好戦的デ マゴーグがわれわれに憲法をよく読めという。戦後史上もっとも屈辱 的な時ではあった。

 ところで、首相が読み上げたのは、憲法前文中の第二段落の最後の センテンスからであった。奇妙ではないか。憲法前文中、もっとも重 要な前段の文章二十行四百数十字を故意に省いてしまったのだから。 肯繁(こうけい)に中(あた)るのでなく、肯繁をわざと外したのだ。 この点に関しては首相はじつに周到だったのである。小泉が作為的に 省略した個所には

①政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする ことを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法 を確定する

②そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威 は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利 は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、 かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、 法令及び詔勅を排除する

③日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高 な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義 に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した

といった文章がある。首相はすなわち、国民主権、人権尊重、平和主 義という憲法の三大ポイントのすべてを捨象し、一部のみを牽強付会 していわゆる、「国の理念」「国家としての意思」「日本国民の精神」 を捏造し、これらを肯んじない人々を威嚇しつつ、自衛隊派兵を正当 化したのである。首相およびそのグループによる、これはまことに計 画的な犯行以外のなにものでもない。


 さて、ヤギ先生はどうしてこういう詭弁を羅列せざるを得なくなる のか。事実からものごとを考えるのではなく、はじめに所与の観念 (しかも普遍性のない間違った観念)があり、事実をその観念に 合わせようとするからだ。どんな観念論的学者にも学ぶべきものが あるものだが、このセンセイからは全く期待できないだろう。

 「個々人の生命、自由、財産を守るために国家をつくった」 という浅薄な前文解釈は次の文章を引き出すためであった。

(3)しかし、それでは国防は説明できない。 国防とは、国民が生命さえ犠牲にして国家の連続性を確保することだ からです。

 つまり国防とは「個々人の生命、自由、財産を守る」ことではなく、 「国家の連続性を確保すること」であり、そのために国民は命を投げ出せ、 というわけだ。これも実に珍奇な国防論だ。国民が命をささげるべき 「国家の連続性」って、一体なんだ。

(4)前文では自然、歴史、伝統、文化、 宗教といった国柄を表現す るべきです。連続する国の姿をうたう。そうでないと「守るべき国 とは何か」が分からなくなります。

 「自然、歴史、伝統、文化、宗教といった国柄」が「連続する国」 だと言う。今までにも何度か指摘してきたことだが、全ての御用学 者・右翼イデオローグが国家を語るときに共通の詭弁・論理的詐術 が行われている。いや、本人たちは詭弁だとは思っていないのかも しれない。真っ当な理論だと思っているのだろう。

 「国家の連続性」の「国家」が、「連続する国」と「国」にすりか わっている。意識的な詐術でないとしたら、科学的国家論を欠くための 理論的混乱だ。このような通俗的な国家観でよくまあ憲法学者が務ま るものだ。

 近代国家による戦争はあくまでも国家間の戦争だ。昭和の15年戦争は 大日本帝国の戦争であり、大日本帝国という国家は敗北して消滅した。 国家は決して連続などしていない。しかし、その敗北にもかかわらず、 このヤポネシア列島の自然と、そこに生を営む人々の「歴史、伝統、 文化、宗教」は滅ぶことなく伝えられ、発展し、生まれ変わっていく。 国家が滅びても国は残る。「国破れて山河あり」とはそういうことだ。 太古の昔からそうである。

 もちろん、大日本帝国のしでかした歴史は、生まれ変わった日本国が 継承し、その責を担わなければならない。そういう意味でなら「国家」 も連続している。

(5)今の前文には「再び戦争の惨禍が起こることのないようにする ことを決意し」と「われらの安全と生存を保持しようと決意した」と 「決意」という言葉が二回出てくる。過去を否定し、自分たちで国 を守るという当事者意識が欠落していることの表れです。

 珍奇な論理のオンパレードだな。「決意」という言葉が2回でてくる ことが「当事者意識が欠落している」証拠だそうだ。じゃ、1回なら 「当事者意識が欠落して」いないの? 3回ならどうなの? というよ うなつまらぬ揚げ足取りをしたくなるようなもの言いだな。

 ヤギ先生の「国家の連続性」の継承には「決意」ではなく「強制が 不可欠」だそうだ。なるほど、当事者意識に満ち溢れている。
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