2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第743回 2007/03/03(土)

《吉本ファシズム論より》:庶民の戦争責任・第2部(3)



(3)庶民の異質のイデオロギー間の葛藤の体験と責任の問題

『ひき裂かれて』より、田村ゆき子「学徒出陣」


 学徒出陣をひかえた息子と陸軍中将で司令官である叔父とが、この 記録の主婦の家で談合し、たまたま戦争観について激しく対立する。 天皇に御苦労であったといわれて、ありがたがっている叔父に、息子 がいう。

「おじさんはありがたいかもしれないけれど、戦死したり傷つ いたりした兵隊はありがたいでしょうか。」
「おじさんは、部下の兵隊がみな喜んで命令に服従していると思わ れるかも知れないけれど、それは大間違いですよ。こんな意味のな いくだらない戦争に、ぼくは大事な命を投げ出そうとは思いません よ。まるで、どぶに捨てるようなものだ。」

 叔父の軍人的庶民はこたえる。

「いや、この光輝ある歴史と伝統のある日本に生れたわれわれは、 幸福だよ。国家あつての国民だからな。国の危急存亡の時、一命を 捧げることのできるのは、無上の光栄というものだ。」

息子はいう。

「それじゃおじさん、その国を危急存亡の中へ追いやったのはだれ ですか。この戦争を聖戦というのですか。その糸をあやつるもの、 手先に躍らされるのはまっぴらですよ。」

叔父「英一や(息子の名前-註)、聞きなさい。わが国の御歴 代の天皇は、国民の上に御仁慈をたれ給うて、われわれを赤子と 仰せられる。恐れ多いことではないか。遠い話だが、神武天皇は ひじような御苦労をなされて国内を御平定あそばされた。民のかま どの仁徳天皇のお話もよく習ったろう。明治の御代からこのかた、 国運は隆々たるものだ。みな御稜威のいたすところだ。」

息子「おじさんは『日本書紀』もお読みになったでしょう。武烈 天皇はどんなことをしましたか。人民の妊婦の腹をさいて胎児を引 きずり出したり、人民を木に登らせて下から弓で射させたり、その 他天皇たちの非行はたくさん挙げられているではありませんか。こ れが御仁慈というものですか。それで『大君の辺にこそ死なめ』 か。」

 このような叔父と息子の対立には、後日譚がついている。やがて、 敗戦となり帰京した息子は、家が焼失して、主婦は疎開、夫は近所 に間借りの状態で真夜中に帰京し、仕方なくさきの叔父の家の戸を 叩いたが、先の大口論にもかかわらず、ずぶぬれの軍服姿の息子を みて、「おお、帰ってきたか。さあさあ、お入り、御苦労だったな」 と、温かく迎えたというのである。



 もちろん、この叔父と息子の対立は、ファシズムとリベラリズム の対立ではなく、庶民のイデオロギーの対立である。そして、本来 的には、ここにこそ、庶民の無智の責任が鮮やかに浮き彫りされて いる。息子も無智、叔父も無智であり、その大口論は、けっきよく、 ファシズム・イデオローグとリベラリズム・イデオローグの思想を ただ模写して演じているにすぎないといえる。庶民の生活的な心情 に根をおいて大口論をしているわけではない。

この叔父と息子は、庶民のうちでインテリゲソチャに属しているだ ろうが、その両者の対立のなかに無智の責任がかえってあらわれて いる。これにくらべれば、さきの「無智の責任」という記録に登場す る主婦や弟や母親は、無智とはいえないのである。なぜならば、そ のイデオロギーは戦争権力イデオロギーを模写していることにかわ りないが、あきらかに自分たちの生活意識と体験によりふるい分け たかぎりにおいて、支配イデオロギーをうけいれているのである。 そこに、固有の庶民の質が存在し、自立しているからである。

(中略)

 庶良社会における庶民は、文化イデオローグや思想イデオローグ の流布する文化や思想を、日常生活によって得た精神体験によって ふるい分け、拒否し、また批判することによって独立性を獲得しな ければならないとおもう。

 「無智の責任」をかいた主婦たちのように戦争に没入した庶民 も、「学徒出陣」に登場する息子のような厭戦的な庶民も、こんど こそは心を入れかえて平和思憩に没入しようと単純に考えるのでは なく、庶民や庶民社会として自立するために、日常生活の意味を掘 りさげようとかんがえることによって、戦争体験と責任の間題に対 処することができるはずである。

 この方法だけが、庶民を、イデオローグや、イデオローグの部分 社会にたいして優位にたたしめ、自立させる唯一の道であることは 疑う余地はないのである、少しでも、戦争イデオローグのかわりに 平和イデオローグに追従することによって、戦争責任の問題が解か れるとかんがえたとしたら、庶民社会と庶民は、社会の基底として 批判的に自立することはできないのである。庶民がイデオローグと イデオローグの部分社会の精神的、思想的模写体としてあるかぎり、 イデオローグたちの時代的転換による転向は、いつまでも無くなる ことはない。イデオローグの部分社会の戦争責任も解決されない 課題として残されるはずである。

 庶民や庶民社会は、支配イデオロギーをささえるプールであるか ぎり、文化的・思想的イデオローグの形成する部分社会を、日常生 活体験によって批判し、拒否することによって自立できたとき、 強固な反体制的な生活思想の基底にかわる可能性をもって存在して いる。


 ファシズム・イデオロギーだからだめだとか、リベラリズム・イ デオロギーだからいいとか、イデオロギーによる先見的な価値判断 を吉本さんは否定しています。イデオローグたちの思想を模写した 思想は空虚だし、なんら変革の力もない。無智であることの証で しかない。その無智は、「文化的・思想的イデオローグの形成する 部分社会」を相対化し、そのイデオロギーを「日常生活によって 得た精神体験によってふるい分け、拒否し、また批判することに よって」のみ克服される。そのとき「庶民や庶民社会は、強固な 反体制的な生活思想の基底にかわる可能性を」もつ。

 四十数年前、まだ三十代半ばの吉本さんが述べたこの基本思想は 「自立の思想」と呼ばれています。83歳になられた現在までこの基本 思想はゆるぎなく貫かれています。庶民を超えようとするひとりの 庶民であろうとする吉本さんの発言を、私はいまなお傾聴しているゆえんです。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/757-fba526b9
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
 ネットサーフィンしていて見つけた埼玉新聞(2003年8月28日掲載)の記事です
2007/03/03(土) 19:58:04 | 雑談日記(徒然なるままに、。)