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第742回 2007/03/02(金)

《吉本ファシズム論より》:庶民の戦争責任・第2部(3)



(2)庶民のイデオロギー的な戦争責任の問題

『ひき裂かれて』より、津村しの「無智の責任」


 戦争中、人間魚雷に乗って死ぬことを夢としていた弟が、戦後ある とき、

「たとえ、自分に偽りが全然なくとも、おれたち(わたしをも含めて) の取った態度、また思ったことは、悪いことであった。エゴイズムか らでも、戦争に協力しなかったほうが正しかったのだ」

という。主婦はこれにたいして、

「いや、わたしはそうは思わない。戦争をはじめから否定し、知性 ある節操で消墟的にでも反対の姿勢をとった人々に対しては、もち ろん心の底から頭を下げるけれども、それとは別の人々の中でも責 任をとって自決した軍人のあり方はどうしても立派に思え、戦争悪 をはっきりと認識しておりながら、時の政府の前に影をひそめて生 きていて、戦後になってからわたしは弱い人間ですなんてひとりご とを言って、きずのつかない程度に自分をあばいて見せるインテリ のあり方のほうが不潔でいやだわ」

と主張する。弟は、これに反駁する。

「例をひけばね、いま流行の新興宗教に夢中になっている人々が、 自分はきれいな気持で信仰し、選挙の際にはその宗教から立候補 した人々に、正しいと思って投票し、政治がその宗教の色にされ てしまおうとしたとき、その人々のやったことは、はたして悪く なかったかということだね。動機さえ正しければ許せるとすれば、 泥棒だって許せる場合もあることになってしまう。」

 さらに、この主婦の記録は、弟の死を決定的なものとする出征を、 悲しみもみせず平然として見送った母親が、死の病床で

「いろいろのことがあったけれど、どうしてもいちばん大きなこと は、八月十五日のことだったよ、一億玉砕しないで生きているとい うことが不思議ですね。幾日も幾日も、ご飯がどうしてものどに通 らなくてね。廃人というのだろうね。あんな状態を-」

と述懐するのを記録している。



 残念なことに、わたしたちの戦争責任論は、心情的な基礎として、 ここに記録された主婦と弟と母親の準位を超えることができていな い。超えていると自負する思想史家の戦争体験論はじつはこの心情 的基礎をしや断しているにすぎない。

 この主婦は、結論として無智であることの責任をひき出している。 いいかえれば、庶民のイデオロギー的な戦争責任は、無智の責任 という点に集約されるとかんがえている。庶民的な準位で流すか ぎり、この主婦によって引き出された無智の責任という問題以上の ものを引き出すことは不可能であろうが、問題はそれを超えておお きくひろがる部分をはらんでいる。

 国家権力によって行われる戦争は、その体制下にある庶民を、好 むと好まざるとにかかわらず動員する。物質的な意味ばかりではな く、その精神を動員して体験的な意味をあたえる。このような動員 にたいして不変な精神的体験をあげうるとすれば、限られた日常体 験だけである。

 この記録の主婦も弟も母親もあたうかぎりの精神的体験を戦争に 注入した庶民に属しているが、けっして日常的な精神体験を全部喪 失したわけではない。そこで喪失されなかったものは、戦争にたい しての日常的な精神体験である。すくなくとも、この日常的な精神 体験にいりこむとき、

「狂瀾怒涛の世界の叫も、この一瞬を犯しがたい。あわれな一個の 生命を正視する時、世界はただこれを遠巻にする」 (高村光太郎「梅酒」)

という精神的体験の世界が構成される。

 庶民社会というものは、このような日常的な精神体験の世界を、 当然の生活世界とかんがえる部分社会である。

 また、イデオローグの世界は、このような世界を唾棄すべき日常の 世界、または、三度の食事とおなじように習慣的なとるにたらぬもの と考える世界である。

 しかし、このような日常的な精神体験の世界は、日本の庶民やイデ オローグのかんがえるような空無の世界ではなく、社会的に意味を与 え解明されなければならない世界である。こういう観点は、「無智の 責任」を引き出した主婦の記録が、まったく掘り下げようとしていな い点である。

 かくて、彼女は、無限に、時代的変換にさいして「無智の責任」を 繰返すほかはない。いわば、いつまでも庶民であるほかはない。庶民 でありながら、その日常的な精神体験の世界に、意味をあたえられる まで掘り下げることができたとき、彼女は、庶民の社会にいて庶民で ない存在となることができるはずである。それ以外の庶民の道は、 つねに擬制的な保守と擬制的な進歩にひきまわされ、無智の責任を 蓄積する道にほかならないと考えられる。

 庶民の日常的な精神体験の世界にくさびを打ちこんで、そこから時 代的転換とともに転向するイデオローグの精神体験の世界を、きびし く批判的にえぐり出し、また、イデオローグの精神体験の世界から、 庶民の日常的な精神体験の浮動性をきびしく批判的にえぐりだすこと のほかに、無智の責任を解消させる方法はかんがえられない。


 この手記の筆者はこのような文を書き残すほどの人であり、それなり の教育を受け、その時代の平均以上の教養を身につけていたと思われ ます。そういう意味では決して無智ではありません。ここで言う無智と は知識の多少の問題ではなく、「日常的な精神体験の世界に、意 味をあたえられるまで掘り下げること」によって得るべき自立した 生活思想を欠いているという意味での無智でしょう。その無智 ゆえに社会全体のヴィジョンを把握しそこなっていて、 「擬制的な保守」イデオロギーや「擬制的な進歩」イデオロギーに啓 蒙されて時代を浮動するほかなかった。

 この点では、有り余るほどの知識を溜め込んだいわゆる知識人の多 くが同じように無智だったし、今なお無智だと言えないでしょうか。 自ら格闘して得た思想をもたず、「擬制的な保守」イデオロギーと 「擬制的な進歩」イデオロギーの間での転向を繰り返している。

 他者をただあげつらっているわけではありません。いま私は、「庶民 の社会にいて庶民でない存在となること」の難しさを身にしみて 感じています。
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